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「もったいない」を手放した時に起こること

最近「もったいない」を理由に何かを使ったり買うことを渋るのをやめた。

引っ越しのとき、あまりの物の多さに手伝いに来た両親がドン引きしていたことがあった。
私自身「こんなの買ってたんだ」とか「同じ本が2冊ある」とか自分の持ち物を把握していなくて愕然とした。
家に来る人には「モノが多いようには見えない」と言われる部屋なのに、なぜそんなことが起こるのだろう。
自分の生活を観察してみると、二つのことがわかった。

一つは、床にモノを置きたくないがため、あらゆる収納にモノを仕舞いこみ、存在が見えなくなるうちに持っていることを忘れてしまうということ。
もう一つは、買い物をするときに「あれを使うのがもったいないから、こっちも買っておこう」と考えていること。
例えばそれはノートだったり、線を引くのがもったいない本だったり、果てはまさかのゴミ袋とかだったりする。
ゴミ袋は「大きいのを使うのをもったいない時用に小さいのも買っておこう」とかそういう感じ。

結果把握しきれないくらいモノが増えていって、元々買ったものも後から買ったものも使いきれずに残っている、みたいなことが発生していた。
そこで考えた。
ゴミ袋さえも、自分に使う許可が出せない私ってなんなんだろう。
私が考える私の価値はゴミ袋よりも低いのか?
確かにシワなくピシッとケースに収まったゴミ袋が並んでいる姿は美しいと感じるし
30年以上使い古してだんだんボロが出てきた自分よりも整って見えるかもしれない。
だからと言って自分の価値がゴミ袋より低いわけない。
もっと言うと、整って見えるものたちや、自分を整えて見せてくれるものたちに囲まれて安心している自分は
自分自身が整っていないことに負い目を感じている、と自ら叫んでいるようなものだ。

ゴミ袋以下の自分はきっとこんな感じ。がんじがらめだった。

ささくれのように引っかかる「もったいない」という感情をぐっとこらえて
私はどんどん自分に物を使う許可を出してみた。
当たり前のように思えるけれどまずはあるものから使っていく。
良いと思った箇所はどんどん本に線を引いて、お気に入りのノートにお気に入りのペンでガシガシ書き留めて
もったいなくて使えていなかった少しレアな食品や調味料もどんどん使う。
逆に今の自分に不要なものは感謝しながら遠慮なく手放す。
(こんまり流に「ありがとう」と言って捨てることは結構大事だと思う。手放したものを記憶に留める意味でも)

しばらくしたら不思議なことに
新しいものを買うときに
どのくらいの期間で自分がそれを手放すことになるかが見えてくるようになった。
もっと端的に言ったら、自分が買うものを吟味するようになった。
本当に欲しくて買うべきものと、欲しくて長く使うことがわかっているけれど手が出ないものと、あったらいいなの境目がくっきり見えるようになった。
そしてそうすることによって自分の生活にリズムが生また。
そのリズムに足りないものだけ補充したりアップデートすればいいということがわかったのだ。

これは私にとって大きな革命だった。
私は私の手に入れたいものを、手に入れたいときに、手に入れることができると分かってる自信はとても大きい。
「いつか手に入らなくなるかもしれない」未来を想像してものを買うことは
今よりもパワーダウンした自分を想像することで
それがいつの間にか「ゴミ袋よりも価値の低い自分」を生み出していたのだとわかった。
そうじゃない。
自分には価値があるからこそ、今要らないものは
今無理して手に入れなくてもいい。
逆に言えばモノを長く使うということは
過去にそれを手に入れた自分を肯定し続けるということなのだ。


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