2020年4月27日(月)

自分がなんとなく、子どもから大人への成長過程の中の教育(教育社会学?)について興味があることがわかってきた。

今日はある授業の中で、『ハマータウンの野郎ども』(原題 "Learning to Labour: How Working Class Kids Get Working Class Jobs"、労働を学ぶ:労働者階級の子供が労働者階級の仕事を得るまで」)という研究的著作を知った。

概要は以下の感じだ。

イギリスの中等学校を卒業し、すぐに就職する労働階級の生徒のなかで、「荒れている」「落ちこぼれ」の少年たち=『野郎ども』。彼らのいだく学校・職業観はいかなるものか?学校はどのような進路指導をしているのか?彼らの形づくる反学校の文化―自律性と創造性の点で、たてまえの文化とはっきり一線を画している独自の文化―を生活誌的な記述によって詳細にたどり、現実を鋭く見抜く洞察力をもちながらも、労働階級の文化が既存の社会体制を再生産してしまう逆説的な仕組みに光をあてる。学校教育と労働が複雑に絡み合う結び目を解きほぐす、先駆的な文化批評の試み。

                            筑摩書房より

興味をもった理由はおそらく、中学生時代にいた不良の存在理由に対してカッコつけたいだけぐらいではないか?という認識をもっていたからだと思う。そして、それがたった一つの側面しか見ていないことに気づかされた。

自分とは異なる家族構成、収入や受けた言葉の数々…
同じ世代を生きているとはいえ、似ているとは言えない周囲の環境が、彼らを作った(当著作では、「再生産した」)と思うと、当たり前だが、もともと同じ人間だったことに気がついて親近感がわいた。と同時に、親の総合的な社会的地位というものは、顔や五体満足以上に、その人間の人生を決定づけてしまうものだと再認識させられる。

似た観点で、(親から)受けた言葉に対する興味深い理論がある。
イギリスの言語・社会学者バーンステインによる、”限定コード”と”精密コード”である。

バーンステインの理論のなかでも、最もよく知られているのがこの限定コード、精密コード論である。バーンステインが明らかにしたところによれば、家庭生活のなかで中産階級出身の子どもは精密コードと限定コードの使い分けを身につけ、労働者階級出身の子どもは限定コードのみを身につけ、結果として、精密コードを用いる学校教育では、低労働者階級出身の子どもが落ちぶれてゆき、「身分にふさわしい労働」へと身を投じていくのである。

簡単に言えば、精密コードは、物事を客観的、抽象的、人格的に述べるコードであり、限定コードは、物事を主観的、地位的に述べるコードである。たとえば、子どもを寝かしつける際に、「どうして早く寝なければならないの?」と尋ねられた場合、「早く寝ろと言っているのだから、早く寝なさい。親の言うことが聞けないのか」と応じるのが限定コードであり、「早く寝ないと、朝起きるのが大変でしょう。今朝も眠いと言っていたじゃない」と応じるのが精密コードである。
         
         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

眠くなってきたので、あまり言及せずに終わるが、確かに土方の仕事は”限定コード”だけで完結しそうだと思う。それが、家庭での言葉遣いにつながり、世代を経て労働階級が再生産されていく様子は容易に想像できる。