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その「学び」大丈夫?

遠い昔から社会には、研鑽という営みが根付いていたのではないだろうか。
より鋭い槍を作るため試行錯誤したり、その槍を扱うためトレーニングを行ったり。

現代社会において、研鑽といえば「学び」だ。
私たちは生まれた時から教育機関に通うことが決められており、現代社会において学びは義務化されている。
そして社会に出ると、仕事という社会的役割が付与される。仕事は、資格取得や新しいスキルが必要になるなど、学びの継続が前提となる。
学ぶことは、生まれてからずっと、あたかも当然のように、私たちの日々の営みに組み込まれている。

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現代人は、仕事で必要だから、前に進まなきゃいけないから、と、当然のように研鑽する。周囲がそんなだと、「自分は大丈夫だろうか」「何か変容していなければ」と焦る。努力の維持に追い立てられる。
サクセスストーリーや成長物語を「ポジティブなもの」として捉える現代の価値観は、新たな素晴らしいモノコトが生まれる要因になる一方、成長しないという選択を排他的に扱う要因にもなりうる。
セミナービジネスなどは、このはっきりとは認識されにくい焦燥感の上に成り立っている部分は往往にしてあるように思う。
焦りは、学びや研鑽の目的にモヤをかける厄介なものだ。なんとなくやった気になる、なんてことは、私自身もたくさん経験がある。

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私は対人支援職向けの団体を運営していて、対人支援職向けの様々な研修やセミナーを企画/実施している。(私自身も臨床心理士という対人支援職に就いている

新奇性/実践性を心がけ、開始1年が経ち、初め一桁台だった集客数は、100名以上をこえるまでに安定してきた。

主催する中で常に気にかけていることがある。
いかにもためになりそうなテーマで研修会を量産したり、人気だった会の第二弾/第三弾を企画すれば、一定の収益は生じるだろう。
だがその状態は、「(団体のビジョンに設定する)実際の仕事で活用してもらう」という目的から外れる。
講師の時間と労力、参加者からの参加料金を回収する主催として、責任を全うできていない。
満足も一定してもらえるはずだが、それでは良くない。
参加者が実務で活用できる状態を保証する必要が、主催者側にはある。

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教える方も学ぶ方も(あるいは環境を提供する方も)常に見据える必要があるのは、「学びの目的」ではないだろうか。
その学びに目的はあるだろうか?
学びによって変わるものはなんだろうか?
自己満足になっていないだろうか?

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イケてる人のマストアイテム(?)のMacBookでnoteを執筆し、デスクには意識高めな言葉を並べるビジネス書や専門書が重なっている。
「頑張っている自分」に酔いまくりな人間が書く文の説得力は薄いが、自戒を込めて今一度、日々努力を重ねる現代人に問いたい。
その学びは、本当に大丈夫だろうか?

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