「許す」と「宥す」と"Allow" その1
こんにちは。
私の住んでいるところは最近天気の良い日が続いています。
アイルランドは今が観光シーズンだと思います。
5月の頭から学校はVIsiting Teacher Weeks とも言える状況に入っており、先週と今週はヨーガも教える先生が来ています。
アレクサンダーテクニークとヨーガは相性がいい、というのがその先生の口癖の1つなのですが、1つの1つの動きやアーサナにどのように入るか、ここを意識することで、いつもの動作を普段とは異なる経験に変えることができる、というのを体感しています。
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先日、人に薦めたこともあり、久しぶりに橋本治さんの『黄金夜界』を読み直した。
この作品は橋本治さんが最後に完成させた小説で、尾崎紅葉の『金色夜叉』を種本として現代の小説として翻案している。
とにかくすごい小説で、私は読み返すたびに胸を打たれる。
その勢いで元本の『金色夜叉』を読み始めたのだけど、いつか読んでやろうと思っていたとはいえ、自分がアイルランドまで来て文語文の小説を読んでいる(しかも、場合によっては音読している)のは少し意外だった。
文語文。正直なところ、慣れていない分、今の私には英語の文章より読みにくい。リズムがつかめず、もう少し苦労しそう。
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さて。
今回改めて『黄金夜界』を読み直し、自分が作品にとってすごく重要なところで勘違いをしていることに気がついた。
そうではあっても、これまで、この小説には圧倒されまくってきたわけなのだけど、そこが整理できたことで少しこの本に近づけたような気がしている。
私が勘違いしていたのはこんなことである。
『黄金夜界』の最後の最後で、次のような文章が出てくる。
私はこれまで、ここで出てくる『宥す』は、『許す』と同じだと思っていた。恥ずかしい限り。
しかし、そう読むのだとちょっと話が合わない、とも感じていた。
見ての通り、漢字が違うのだから、意味するところは違うはずだ。
だけど、それまでそんなことあまり気にしていなかったのである。
先入観。というか、わかったつもり、というか。
これだけで、アレクサンダーテクニークと絡めて記事が一つ書けるような気がする。
これを読んだ時、私はたまたまアレクサンダーテクニークの関連で ”allow” という単語の用法を整理しているところだった。
"allow"という単語を英和辞典で調べると、その第一の意味は「・・・を許す」だと書かれている。私もそう理解していた。
けれど、その一方で、普段この言葉を使っていて、それだけじゃないんだよな、という思いもあった。
「調べればいいんじゃん」という簡単なところにたどり着くまで随分かかったが、これを機会に、日本語・英語とも「ゆるす」について自分なりに整理しておこう、という個人的なお勉強が、この文章である。
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『許す』と『宥す』
まず、辞書的なところを整理する。
手元に国語辞典・漢字辞典がないので、コトバンクを参考にした。
「許す」とは、聞き入れることだという。
何を認めるのかと言えば、それが自分にとって不都合でないことを判断してから、「相手の希望や要求」を認める。そう書いてある。
「聴す」とも書く、というところが面白い。
「宥す」は、大目に見ることだという。
そこに判断はない。ただ、飲み下すことだけがある。
そう書いているように読める。
上記を踏まえて本文を読む。
《相手を宥してしまった人間》と書いているということは、この「宥し」、つまり《相手のためを思って》した《なしがたい譲歩》は、「不都合なことがないとして、相手の希望を聞き入れる」という自分の判断が伴った「許し」ではなかった、ということである。
そうではなく、自分の中でわき上がってくるものとは無関係に「大目に見てしまった」。
わき上がってくるものも、相手の望みも全て丸呑みにしてしまった、ということになる。
《なしがたい譲歩》は、納得を飛ばして為された事になる。
それは、わき上がってくるものを知らせる回路に麻酔をかけてしまうようなものだ。
だから、当人はそれを『傷』と考えられない、考えるのはフェアではない、と受け止める。
なぜなら、それは痛んでいないから。もう少し正確に言えば、痛んでいるけれど、それを遮断し、無かったことにし続けているから。
それが「宥し」であって、「許し」ではない、ということだ。
でも、本当にそこで止まっていいのか?とも思う。
そこにずっと止まっていられるのだろうか?
麻酔だっていつかは切れる。
そうすれば痛みは戻るはずで、わき上がってくるものが戻ってくるかもしれない。
そう考えた時、《相手を宥してしまった人間》である貫一が、相手を宥してしまった時にした独白を思い出す。
私はこの一言がこの小説のターニングポイントの1つだと思う。
この一言で、《相手を宥してしまった人間》は、自らの『傷』を《ねじ伏せ》、なかったことにしてしまった。状況にとどめを刺し、固く蓋を閉じてしまった。
貫一はこの一言に納得することで、麻酔を切らすことを許さない、『傷』が知らせようとするものを遮断し続けなくてはならない状況に陥ってしまったように思える。そうする貫一は、自分に「ゆるし」を与えている気がする。
《怒ってすむなら簡単だよな》には、怒っても事態が変わるわけではない、という諦めがある。この小説においては、状況が変わることはないのはおそらく間違いない。
それでも「怒り」自体を封殺するのは違うんじゃないの、と外野の私は思ってしまう。それがわき出るのを「ゆるし」なさいよ、と。
しかし、それは出来ないことだった。
というか、それが出来ない人間が貫一だったと小説は伝える。
それは貫一の《生真面目すぎる心のなせる業》だった。
貫一に《怒ってすむなら簡単だよな》と思わせたものは、《マントのようなものを着た男が、着物姿の日本髪の女を蹴飛ばしている》銅像だった。
それは、種本である『金色夜叉』の正にその場面を象った銅像である。
「怒る」道は既に誰かが通った道なのだ。
それが目の前に表れるということは、その「怒る」道が塞がれていることを暗示しているように見える。
ただ、実際には、「怒り」方にもいろいろあるのではないか?
そもそも、暴力をふるうなんて「怒り」の表し方としてもっての外だ。
けれど、そこで「怒り」の道を丸ごと封じてしまうということこそが《生真面目すぎる心》ということなのだろう。
それが貫一なのだ、と言われている気がしてくる。
この《生真面目すぎる心のなせる業》がもたらしたものを、本文では、
と書いている。
しかし、こうならせてしまった、この《生真面目すぎる心》はどこからきたのだろうか?
ここまで整理してもまだ、私はこの本の結末をうまく飲み込めていない。
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アレクサンダーテクニークと"Allow"
私も、私の周りにいる人たちも、アレクサンダーテクニークのレッスンやワークをする際に、”allow”という単語をよく使う (ちなみに、他によく使うのは、”let” と “invite”)。
先日、テーブルワークを受けている際に、
と訊かれたのだけど(正直なところ、質問が正確にこの文章だったかはあやしい。こんな感じだったはず)、"allow" = 「許す」と単純にとらえていた私は、これに「そんなことはない」と答えた。
私は、「許す」前には、「認識する」「気が付く」というプロセスがあり、そちらの方が難しいと思っていて、「許す」はそういう「認める」プロセスを経ていくとそのうちたどり着くもの、となんとなく考えていた。
だから、challengingのは、「許す」ことではなくて「認める」方なんじゃないのかな、とこの質問を受けて考えた。
でも、こういう質問が出る以上、"allowing"の難しさというのもあるはずで、そう考えると私の回答は質問の根本をずらしている気がする。
ところで、"allow" という単語は "allow" = 「許す」という単純な図式で済ませられる単語ではない。"allow"は大きく分けて3つの意味を持っている。
これらは、手元にあるロングマン英和辞典を参考に日本語にすると、「・・・を許す」「・・・を可能にする」「・・・を認める」となり、"allow"は「許す」以上の意味を含んだ単語ということになる。
特に、「・・・を可能にする」というところが面白い。
また、この場合の「認める」は「正しいとして受け入れる」という意味であって、「知覚する・気づく」という意味ではない。
ちなみに、アレクサンダーテクニークのレッスンで"allow"という単語を使うときは、1番の意味と2番の意味のミックスで使っていると思う。
ところで、貫一のしてしまった「宥し」は、英訳する時に、"allow"という語が使われるのだろうか。
私のそれほど豊かではない語彙からすると、"overlook"のような言葉が、それそのものという気がするが、それではあまりに直接的すぎる気もする。
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改めて、"allow"の意味するところを俯瞰してみると、"allowing"の持つ難しさとして次のことが考えられる。変な文章だが大目に見てほしい。
1. allowする対象であるsomethingが何かわからない。
2. 可能にさせようとしてしまう
1つ目は、私が考えたことと同じで、「気づく」「認識する」の問題である。何が起こることを"allow"すればよいのかがわからないから難しいということはあると思う。
でも、これは"allowing"の難しさというよりは、やはり「気づき」の難しさが中心にある。
2つ目は、「それが起こるようにする」のではなく、「それを起こそうとしてしまう」という難しさである。
"make available"という言葉はあくまで「それができるようにする」ということであり、「それが実際に行われる」のとは異なる。
「できる」と「する」は違うわけで、それが「できる」状態とそれを「している」状態は2つの異なる状態である。
ドアの鍵が開いていれば、そのドアを「開けることはできる」が、そのドアを「開ける」かはまた別だ。
難しさは、「開けることができる」ようにしたいのであって、「開けてしまえ」という行動までを"allowing"は求めていない、というところにある。
"allowing"が求めているのは「できるようにする」ところまでだ。
「開けることができる」は、「開けてしまおう」という誘惑になりやすい。
或いは「開けることができるようにする」は「開けてしまえば」一目瞭然なのだから、そちらを目指しやすい。
しかし、そうしてしまうと"allowing"ではなくなる。
ということは、この「してしまう」の前で立ち止まるのは難しいか?というのが元の質問の主旨だった、ことになるだろう。
随分時間がかかった上、もはや完全に私の独白でしかないものになってしまった。
だが、ここにたどり着いたことで、ようやくこの質問とアレクサンダーテクニークがはっきりと結びついたと思う。
そもそも、レッスン中に受けた質問なのだから、テクニークと関係があるのは間違いなかったわけだけど、ここまできて、ようやく、私が思っていたのとは別の部分に問いかけたものだったことがわかった。
これは、Awarenessではなく、Inhibitionの話だったのだ。
というところで、次回に続く(予定)。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。