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大型類人猿を守るべき理由(2)

前回の記事では、「大型類人猿を守るべき理由」について、私が日ごろ講義や講演で人々に大型類人猿保護の必要性を述べるときの説明をまとめました。かなり長い文章になりましたが、私が述べたのは、要するに「大型類人猿には価値がある、だから守らねばならない」ということです。今回はこの「大型類人猿の価値」について少し補足したいと思います。

かなり長い文章になりましたが、私が述べたのは、要するに「大型類人猿には価値がある、だから守らねばならない」ということです。今回はこの「大型類人猿の価値」について少し補足したいと思います。

機能的価値


前回記事で私が説明したのは、大型類人猿の「効用」です。マーケティング用語でいう「機能的価値」といってもいいかもしれません。かれらがこの世に存在していることで、こんないいことがあるよ、だからこれからも存在し続けていてくれないと困るんだよ、だから守りましょう、ということです。

機能的価値の弱点


自分で説明していて言うのもなんですが、私は、機能的価値によって大型類人猿保護を訴えることに若干の疑問を抱いています。それは、以下のような理由によります。

第一に、機能的価値を訴えることの弱点です。機能的価値をよりどころにする限り、「用済み」となるリスクから逃れ得ません。たとえば、将来科学技術が進歩して、チンパンジーがいなくても人工的に熱帯林生態系を管理することができるようになったら、もうチンパンジーはいらない、ということになってしまいます。

そうなってしまうと困るので、大型類人猿の保全関わる人々(もちろん、私もその一人です)は、一生懸命かれらの「機能的価値」を探し、見つけ、それを宣伝します。たとえば野生チンパンジーは薬理効果のある植物を利用した自己治療行動をしますが、そこから、チンパンジーの薬草利用から人間が学び、薬品開発に応用しようというプロジェクトがあります。

つまり、野生チンパンジーが自然の生態系の中に存在していることで、人間の健康と福祉に役立つ知見が得られるというわけです。実は、同様の試みは、人間社会を対象にしても行われています(むしろそっちが先です)。

しかし、このようにして一生懸命に機能的価値を「発掘」しようとする時点で、実は機能的価値は方便であって、本音は別のところにあることがわかります。

その本音とは、「かりに大型類人猿の存在に何の効用もなかったとしても、絶滅して欲しくない」です。大型類人猿は、役に立つとか立たないとか、そういうこととは関係なく、存在そのものが貴重でかけがえのないものである。これが、私を含めた大型類人猿の保全を願う人の本音だと思います。

本来的価値

この、大型類人猿の存在そのものに認められる価値を、私は「本来的価値(または内在的価値)」と呼びたいと思います(辞書で「本来」の意味を調べると、「もともとそうであること」「それがあたりまえであること」「道理であること」と書かれています)。

では、こっちが本音なのに、それを前面に出して言わないのはなぜでしょう?端的にいえば、本来的価値を訴えても人々の理解を得るのが難しいと考えているからです。本音は本来的価値だけれども、方便として機能的価値を持ちだしているのです、というと少し言い過ぎですね。機能的価値と本来的価値は相互に排他的な価値ではありません。子にとって親はかけがえのない存在であると同時に、自らの生存に必要な養育機能を提供してくれる機能的存在でもあります。それと同じことです。

本来的価値は時代遅れ?

だったら、講義や講演の場でも両方の価値をちゃんと説明したらいいではないか、と思われるかもしれません。たしかにその通りです。しかし、実は近年(今世紀に入ってから)、大型類人猿に限らず、自然保護一般において、本来的価値を訴えることは流行らなくなってきているのです。本来的価値を言うと受けが悪い、といってもいいです。この点について、次の記事でもう少し掘り下げたいと思います。


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