竹ノ下祐二

アフリカで野生大型類人猿の野外研究と保全活動をおこなっています。「アジア・アフリカに生きる大型類人猿を支援する集い(SAGA)」の世話役代表をしています。

竹ノ下祐二

アフリカで野生大型類人猿の野外研究と保全活動をおこなっています。「アジア・アフリカに生きる大型類人猿を支援する集い(SAGA)」の世話役代表をしています。

マガジン

  • 大型類人猿を守るということ

    「アジア・アフリカに生きる大型類人猿を支援する集い(SAGA)」の代表世話役を務める筆者が、自分自身の活動や人々との関わりを通じて考えたことを書き綴ってゆきます。野生動物や動物園に関心のある方に読んでいただけると幸いです。(内容は筆者の個人的見解であり、SAGAとしての見解ではありません。)

最近の記事

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自己紹介をかねて

私は、大学教員をしながら、野生大型類人猿の研究と保全活動をしています。大型類人猿と関わりはじめてから、今年でちょうど30年目です。30周年を記念して、というわけではありませんが、これまでの自分の活動を振り返りつつ、「大型類人猿を守るとはどういうことか」を考えながら発信したいと思います。 現在、研究活動としては、アフリカのガボン共和国を主なフィールドとして、ゴリラやチンパンジーの野外調査をしています。また、名古屋市の東山動植物園のゴリラの観察もしています。保全に関しては、ガボ

    • 大型類人猿の何を守るのか+連載折り返しの雑感

      連載折り返しの雑感年頭からはじめたこのマガジンも記事が20を越え、時期的には6月と、折り返しを迎えましたが、先週は更新をお休みしてしまいました。自分の中で少しネタ切れになってきたというか、ネタはいくらでもあるのだけれど、それをどのように表現していったらいいか、というところで悩むことがあり、少し考える時間が必要になりました。 連載の2つの目的 この連載をはじめるとき、もくろんでいたことが二つあります。ひとつは、大型類人猿保護に関して、ある程度まとまった形の日本語による情報発

      • 大型類人猿はひとなのか、ひとでないのか(3)「人間±α」を乗り越える思想が必要

        ここまで2回にわたり、大型類人猿を擬人化することについて考えてきました。現在では、大型類人猿に服を着せたり二足歩行をさせたりといったあからさまな擬人化をほどこすことはかれらの保全に悪影響があることが明らかになり、それが実体でない画像などであっても批判の対象となります。その一方で、そのような擬人化を批判する研究者の一部が、おそらくは大型類人猿の尊厳や本来的価値を強調し保全を訴える目的で、大型類人猿を「一人二人」と数えたり「男性・女性」というなどの擬人化をほどこしています。これは

        • 大型類人猿はひとなのか、ひとでないのか(2)「ほとんど人間」であるという宣伝

          前回の記事では、大型類人猿の合成画像を用いた研究を紹介し、擬人化して表現することが、それを観る人々に大型類人猿やその危機的状況について誤った認識を与えかねないことから、そのような大型類人猿の「擬人化」はかれらの保全にとってマイナスであると述べました。 https://note.com/ytake7011/n/n657dba71fcfc 大型類人猿の「擬人化」への反対・抗議私が代表世話役をつとめるSAGAでも、この問題について繰り返し抗議し、適正化を求める発信してきました。

        • 固定された記事

        自己紹介をかねて

        マガジン

        • 大型類人猿を守るということ
          22本

        記事

          大型類人猿はひとなのか、ひとでないのか(1)擬人化の問題

          「チンパンジー」はNGワード?大型類人猿は不快なコンテンツ? 上の画像は、Canvaという画像生成AIに「A panda surfing a wave」で作らせた画像です。もちろん、フィクションです。野生のパンダがサーフィンすることはないし、パンダを調教してサーフィンをさせたという例も聞いたことがありません。生成型AIを使うと、このようなありえない画像も作れてしまいます。 ところが、同じCanvaを使って「A chimpanzee surfing a wave」というフレ

          大型類人猿はひとなのか、ひとでないのか(1)擬人化の問題

          私にできる住民参加型保全

          住民参加型保全について長々と書き連ねてきましたが、この記事で一段落します。私は、自分のこれまでの活動を振り返って反省し、今の私には住民参加型保全と呼べるような活動はできないと思っています。理由は単純です。私はいま、現地に腰を据えて活動できないからです。 住民参加型保全の実施には、地域の生活をともにすることが不可欠私の現在の暮らしのベースは日本にあります。調査地であるムカラバには毎年行っていますが、授業の合間をぬっての訪問で、一回の調査期間は一ヶ月未満です。現地にいる間はゴリ

          私にできる住民参加型保全

          地域住民の「主体的な参加」とは(2)

          大型類人猿の「住民参加型保全」のあり方について、私自身が経験から学んだことのうち、一番たいせつなのは参加の意思決定を住民に委ねることだと前回記事で述べました。 このことは、とてもあたりまえのことに思われますが、それをきちんと述べたものはあまり(ほとんど)見たことがありません。当たり前すぎて言わないだけなのかもしれませんが、これをきちんと言わないために、しばしば、現場では真逆のことが行われます。 今回は少し遊び心を出してみます。ChatGPTさんに「アフリカ大型類人猿の保全

          地域住民の「主体的な参加」とは(2)

          地域住民の「主体的な参加」とは(1)

          前回は、住民参加型保全のありかたを考えるてがかりのひとつとして、私自身が関わった、ガボンのムカラバにおける大型類人猿の野外研究プロジェクトの黎明期のエピソードをとりあげました。今回はその続きですので、未読の方は前回記事からお読みください。 主客の逆転はじめ、Yさんは彼らのフランス語をわかっていないのではないかとさえ思った私ですが、そうではないとわかると(失礼にもご本人に確認したような記憶があります)、今度は逆に驚嘆しました。たった一言の発言で、議論の構造をすっかりあべこべに

          地域住民の「主体的な参加」とは(1)

          「我々はここへ研究に来た。ただしあなたがたとである」

          前回の続きです。 前回の記事に書いたことは、ただ一回の話し合いの場の描写ではありません。実際には、D村の人々は私たちの調査にそれなりに協力してくれながら、さまざまな場面でいろんな「要求」をしてきました。わたしたちは、そうした要求は可能な範囲で応えてきましたが、応じればさらに要求をつりあげ、断れば仕事を投げ出すなど、なかなか大変でした。 私には、交渉ごとの際に彼らの用いるロジックが彼ら自身の本音だとはなかなか思えませんでした(今でも思えません)。外国人に搾取される地域住民と

          「我々はここへ研究に来た。ただしあなたがたとである」

          「お前たちは、かつて木を切れと言ったが、今度は切るなと言う」

          前回記事に引き続き、今回も「住民参加型保全」の話を続けます。 「住民参加型保全」に対してモヤモヤを感じつつも、だからといってそれに反対するわけでもなく、どちらかと言えば推進の立場である。しかし、モヤモヤを感じているので活動に今ひとつ身が入らず(心も入らず)、はたから見れば文句を言うばかりで何もしていない。というのが、率直な今の私の姿です。はたから見なくても、自分でもそう思います。 4月8日の「報道特集」で、亡くなった坂本龍一さんが「反戦」に関して生涯その姿勢に一切のブレが

          「お前たちは、かつて木を切れと言ったが、今度は切るなと言う」

          「住民参加型保全」をめぐるモヤモヤ

          前回の記事では、大型類人猿を絶滅の危機においやってきたのは主として先進諸国の人々のニーズを満たすための開発であったのに、その保全のために地域住民による生息地利用を制限することに対する違和感を述べました。 実は、大型類人猿の保全に関わる人々の間では、そうした問題意識は共有されています。そこで、大型類人猿が生息する地域に暮らす人々を地域の生態系から切り離すのではなく、むしろ彼らによる積極的に生態系全へのコミットメントを深めてもらう形で保全活動を進めることが推奨されています。それ

          「住民参加型保全」をめぐるモヤモヤ

          大型類人猿とともに暮らす人々(地域住民)

          「持続可能な開発」とは「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」と定義されています(参考:国連広報センター)。大型類人猿に限らず、自然保護や環境保全とは自然環境に手を着けるのをやめることだと思っている人がいるかもしれませんが、持続可能な開発概念は、現在生きているわたしたちが幸福や経済的利益を追求する過程で自然を利用する(=生態系サービスを利用する)ことを否定していません。「どうすれば自分たちの幸福と将来世代の幸福を両立させるか」を考えることが重要

          大型類人猿とともに暮らす人々(地域住民)

          生態系サービスの受益者は誰か?

          ここまでの連載で示したように、私自身は大型類人猿にその本来的価値を認めつつも、社会に対してはかれらの生態資源としての価値(重要な生態系サービスの供給源・担い手としての価値)をもって保全の必要性を訴えてゆくという立場をとります(あくまで暫定的にですが)。 そのためには、大型類人猿が担いうる生態系サービスは何であるか、それらを持続可能なやり方で享受するにはどうすればいいかを考える必要があります。その一環として、前回、前々回の記事では、かれらの肉を食用とすることについて検討し、現

          生態系サービスの受益者は誰か?

          大型類人猿を食べることについて(2)

          前回の記事では、大型類人猿を食べることの是非について、サステイナビリティの観点から望ましくないと述べました。と同時に、私個人としては、サステイナブルかどうかに関わらず、人々に大型類人猿を食べて欲しくないし、自分も食べたくない、つまり、実際に食べるか食べないかではなく、大型類人猿を食糧資源として捉えること自体に対して抵抗感があるとも述べました。今回は、この点をもう少し掘り下げたいと思います。 「大型類人猿は食料ではない」は正当化できるか?私が、自分自身の価値観として「大型類人

          大型類人猿を食べることについて(2)

          大型類人猿を食べることについて

          今回は、大型類人猿を食べることについて考えてみたいと思います。 食料としての大型類人猿私はゴリラもチンパンジーも食べたことはありません。食べたことがある人によると、少なくともゴリラはそこそこ美味しいそうです。ゴリラは草食動物ですし、それ以外の大型類人猿も体サイズが大きいのでまとまった量の肉がとれますし、食べ物としての栄養価や味はそれほど悪いものではないのだろうと思います。 実際、大型類人猿の生息地に住む人々の中には、伝統的に大型類人猿を食料として利用してきた人々がいます。コ

          大型類人猿を食べることについて

          大型類人猿の提供する生態系サービス

          今回は、大型類人猿を守るべき理由(1)で述べた大型類人猿の価値を、生態系サービスという観点から検討しなおしてみます。 大型類人猿の価値を生態系サービスとして説明する文化レクリエーションサービス 上の記事では、大型類人猿の価値を人間にとっての重要性(価値)と生態系にとっての重要性に大別しました。このうち、人間にとっての重要性としてあげた2点は、雑ぱくに言えば学術的・文化的価値といえます。したがって、これらは文化レクリエーションサービスと捉えることができるでしょう。 調節サ

          大型類人猿の提供する生態系サービス