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冷静と狂乱の間「ミッシング」

I think true has no temperature.

ミッシング」は、非常にセンセーショナルな映画だと思う。
それであるが故に、内容をど返しでいろいろな意見や感想が溢れ出るんだろうと思う。あえて、この作品と距離をとって感想を書くことにする、乗ろうと思えばいくらでも乗れるからだ。

私はこの作品嫌いだ、何を思えばいいのか分からないから。ある種の無責任ささえ感じてしまう、オチのない怪談を聞いてるような気分になる。
青木崇高演じる夫以外の誰にも共感をしない。
まあ共感が全てではないけれど。
はっきり言って拒絶してやろうと思ってる、いつまでもこんな話ばかり評価し合う邦画界は犬に喰われてしまえと思っている部分も大いにある。

子供がいない奴に苦しみがわかるか?と言われそうだけど、知ったことか。そもそも子供がいるいないとか話じゃないだろうし、そんなことで擁護する人間たちに受け取り方の踏み絵をさせられるなら、私はその程度のものだろう、知ったこっちゃないとさえ感じる。

冷たいとか温かいとかそういうこと言い出す輩もいるけれど、感情に温度なんかないんだぜ、もちろん真実にも

上品な皮を被った、面の皮の厚いエンターテイメント

物語は簡単。

一人娘を失った夫婦とそれを追いかける地方テレビ局のディレクターが、SNSや報道・テレビ局の在り方と衝突しながらと娘を探すストーリーだ。

正直言って、この類の作品に辟易とし始めていた。
話題の映画・評価が高い映画は大抵こんな社会の闇が云々といった内容の物語ばかりだ。
ゴールド・ボーイ」を通った私からすると、抜けが悪くて面白みにかけると言ってもいい。

終始感じが悪いのに面白くて笑けてしまうのがウリの吉田恵輔だったのに、河村光庸の手にかかるとただただ感じ悪くて着地をさせない話になるのだろうか?
今の日本について考えろ」と毎回言われ続けてると、そりゃ嫌になる時もあるよ。問題提起は毎回するのはいいけど、じゃあどこに着地させたいかはいつもヌルッとしてる。

今回はメディアやSNSが標的だ。
テレビやメディアが作り出したホッカホッカなイメージを美味しく飲み干して、外野中の外野が手っ取り早くゴミクソみたいな正義を投げつけられる人々を描き、そもそもそれを作ってるのはメディアだよね?っていう批判はごもっともだとは思う。
じゃあ、この映画の中でお前はどうすればいいと思ってるの?それを言えよ。

観た人が持ち帰って考えてください

その目くらましばっかり使うなよ。
お前たちがやってることは、反対側の岸から同じように違う角度の正義の石を投げているのと変わらないと思うわ、今は。

私の好きな映画や音楽はいつだって、退屈や痛みや苦しみを乗りこなして胸を熱くする・ワクワク出来るエネルギーに変えてくれるものだ。それがたとえ、どんなに薄ら暗くても希望の光を手繰り寄せられる。
だけど本作には光が見えない。「ああいう奴らがいなくなると、世の中少しマシになるのにね」といった類の「自分の感覚に合わない連中が消えれば良くなる」と言った自分勝手な感覚を正義感を持ってひけらかしている。
眉間に皺寄せてこの世を憂いてることが正しいっていうなら、私はそれを絶対したくないし、なるべく楽しくハッピーに生きることを考えていく。なぜなら、少なくとも生まれてきた責任がある場所はそこだと信じていたいから。

世の中に思いっ切り浣腸して、指に付いてしまったウンコを臭い!臭い!と笑っていたいわ。

話変わるけど、異様にフリック速い人間って恐怖だよね

演じるとは何か?

吉田恵輔監督の本作のインタビューでは、ことさら彼独特の軽妙で信用ならない語り口調で石原さとみの存在について語られている。

要約すると、
・石原さとみ自身が掛かりまくっていて、演技ではなく憑依のようなお芝居で演じていた
・苦手なタイプの女優だったけど、一緒にやることが自分自身への挑戦だった

ということだ。
多分だけど、本作の石原さとみは何らかの賞を取るだろう。そしてあらゆる方面から絶賛される。

ボディソープで髪を洗っていたというギシギシの髪の毛

基本的にテレビドラマも見ない私にとっては、関係のない人だったし、個人的には彼女の出演する作品に触れることはなかったし、まぁ出ても...って感じだった。
(あとシンプルに好きな顔じゃない)
いつもキャラクターのような役を演じているみたいだったし、それをぶち破りたいという気合いは画面からすごく伝わった。

でも、結局のところキャラクターだったよね。
娘を失って錯乱している人」を演じている感じがした。
一人の母親が、娘を失って錯乱している姿」ではなかった。

それに終始、彼女のテンションが変わらない。
イライラし憔悴し、罵倒し泣き喚く。
もちろんそういうキャラだから仕方ないけど、ある意味それだけを思いっ切りやりきれば成立しちゃうんだったら、「演技力やばい」とか「体当たり演技」なんて呼ばれるのおかしくないか?

音楽で考えれば分かりやすい。
ずっとハイトーンで張り上げて歌ってる奴が、必ずしも歌上手いわけじゃない。

こういうのを体当たり演技とか評価するのは本当にサムいと思う。
作品中、ほぼずっと同じテンション・同じ温度で暴れ回ってるだけ。鬼気迫ってようが憑依してようが、それが作中通して通り一辺倒なんだから、たかが知れてると感じる。
カイジの藤原竜也と同じジャンルだから、私の中で。

というより、吉田監督の演出の機微はどこに行ったの?と感じた。
どんな俳優も、一般の世界にいる少しイタい人間に変えてきた魔法の演出は、石原さとみには効かないのか、あるいはそれを体現できていないだけなのか?知らんけど。

青木崇高さんのこの表情作り
これが懐の深い演技というやつじゃないの?

最後のブーも見え見えだし、、、あと劇中で2回挟み込まれた「切ないピアノの旋律の中で展開する、無人空間とぶつ撮り」のシーン、あれ2回やるのはしつこい。
それに毎回やるのやめてほしい。
背景のノイズ的なモブキャラの音声バランスもいかにもって感じだし、そう言った点では既視感のある演出が多くて、手癖をすごい感じた。
空白」で、とんでもないトラックの轢死シーンを見せてくれた人なのに。

「空白」を作った時は賞を狙って作ったと言っていたので納得出来たんだけど、本作は「空白」と地続きの物語で、テーマもほぼ似たよう味変程度のもの。
その中にある新しい何かが、石原さとみを主役にするという選択肢をとっただけなのだとしたら、私はしばらく吉田組遠慮させていただきます。

好きな監督だからこそ、次は「神は見返りを求める」みたいなの作ってよ。
No More スターサンズ

ミッシング
監督・脚本 𠮷田恵輔
出演 石原さとみ
青木崇高
森優作
中村倫也


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