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存在の軽さ、重さ。

Twitterのわたしのフィードで話題になっていた、漫画『A子さんの恋人』を購入して読んだ。全巻読了後、下記の書評を読んでさらに考えを巡らせた。存在の軽さ、なるほどな…と自分の初めの読みの甘さを思いながら最終巻をもう一度読み終えたところである。

昨日、フィクションの軽さと重みについて考えていたこともあり、存在についての重さはヒットワードだった。判断軸を重さにすると、わたしの生き方はどうなるだろうか。上記の書評に何度も戻りながら考えていた。

偶然にも(?)わたしはYUKOで、U子で、ゆうこで、ユウコで、優子でも侑子でも悠子でも夕子でも別に変わらないんじゃないかと、A子さんと同じような感情を抱いたことがあったと思い出した。名付けの母に、何故この漢字を選んだのか聞いたことがあるが、なんだか「ちゃんと書けるほど」パッとしてなかった印象だったことも理由にある(母の直感なんだろうけれど)。なんなら、ペンネームのようなものが欲しいと友人に相談して、やっぱりサ行が欲しいとか言って一通り候補を書き出したこともあった。いよいよよくわからなくなってやめたけれど。

昔から、孤独に恐れていたと同時に、誰かの特別な存在になりたいと思っていた。何かのグループ分けがあったら真っ先に名前が思い浮かばれるような、親友に、唯一無二の存在になりたいと、そんな思いがいつからかずっと胸にあった。そうすれば、孤独じゃなくなる、と思っていた。

でもそれは叶わなかった。小学生のときも、中高も、大学も、だれかの一番になれなかった。仲良くしてくれてる友人は何人もいたが、どこかで替えの効く存在だったんじゃないかという考えが拭えない。だからこそ、体育の時、二人組のペア作って〜という言葉には震えたし、修学旅行の班決めも毎年誰かに選ばれなかったらどうしようと思っていた。

誰かに選ばれたくて、でも自ら誘えなくて、その度にわたしは自らの存在を軽くして行った。重いと誰かの負担になるから、だから日に日に持っているものを軽くしていった。その時学内で流行っているものには敏感だったし、知らない単語があればすぐ調べたし、成績もそこそこ取るようにしていた。何かが飛び抜けることを恐れ、話を合わせられるように尽力した。知らないことで存在がなくなることも、知らないことで和が乱れることも恐れた。一方で、自分の心は空っぽで、誰かに話したいと思う話はどんどんなくなっていった。

「他人にとって自分は軽くなければ、好かれてもらえない」と思っていたと同時に、矛盾しているが誰かにとって重くなれないことがコンプレックスだった。だから、合唱コンクールで伴奏をしたり(大きく失敗してその一度で退いた)、学級委員向いてるかもよって担任の先生に言われたらそうなのかなと応募してみたりした。存在を軽くしていたのと同時に、誰かに認められたい思いも強くなっていった。

誰かの特別になりたいけれど、なれなくて、日に日に、自分はやはりどうしても替えの効く存在だと何となく受け入れるようになってきた。実際に、社会人になり、自分の体調不良が原因で配属替えをしてもらったときも、それが自分に最善だと思いながら、後任者が何の問題もなしにやり遂げる過程を見て、あんなに頑張ったけれどやはりわたしじゃないといけない理由なんてなかったんだ、と落ち込んだこともあった。

『A子さんの恋人』を読み、上記書評を読んで思うのは、やはりどこかでわたしは重くなる決心を、覚悟をしないといけないんだということ。

何かを待って、誰かがアウトプットしてくれたものに合わせるんじゃなくて、失っても自分の重さを、自分をそろそろ表現しながら人と交わることを経験しないといけないように思う。きっと、軽くしているからこそ、誰かを傷つけてしまっていると、今日もお昼に何か話題が提供できずに思っていた。

存在を軽くすればするほどわたしは何者でもなくなる。そうすると余計に、誰にとってもわたしが掴みどころが無くなってしまう。

誰かにとって特別でありたい以前に、自分が自分で、替えの効かない存在であると認めてあげたい。(それには人との交わりが必要な時もあるけれど……)

とりあえず、積読にしているミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』は、今読むときだと思うので、積読の山から引っ張り出そう。

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