「贈与がどんな結果をもたらすのか、ぼくらは事前に知ることはできない」けれど。
贈与がどんな結果をもたらすのか。公平さを生むのか、役に立たないのか、むしろ害を及ぼすのか(これもよくあること)、ぼくらは事前に知ることはできない。(中略)贈与はつねに過剰になる。支配と従属の関係も生む。
松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』に出てくる一説だ。
今日、何かを贈ったあとに、それがむしろ害を及ぼしたような気がして、何かを贈るのが怖くなった。
・・・
今日の出来事。
上司から頼まれていないけれど、ふと気がついた仕事をやってみた。それを上司に報告しつつ、聞こうと思っていた事項のお伺いメールを、昨日退勤前に送ってみたところ、今朝返信を確認したら、見事に尋ねた事柄の答えだけの、簡素なメールが表示された。この15行のわたしのメールに2行だけかい、と、ちょっと萎えた。
今日は在宅勤務をしていたのだけれど、ある出勤している後輩に集中的に仕事が回ってしまっている様子が見受けられた。そのため何か在宅でできることないかと、提案したメールを送ってみたところ、「一人でできそうですので、ご提案はご放念ください」とかちっとした返信が来た。コロナ禍で暫く会えていないのだけれど、いつもはもう少しフランクな連絡が多かったので、そのトーンの差に、寧ろ忙しい中返信のお手数をすいません…とそんな気になってしまった。
ある先輩が20名規模のトークルーム宛に、ひとつのお尋ね連絡を流していた。その文章は3行ほどの簡潔な文章で、明確な事象が背景にあるのだろうけれど、色々な場面を想定できてしまうような文章だった。ふとそれに関係しそうだと思い当たるものがあったのだけれど、“先輩だし、きっと自分が思い当たるもの、もう検討済みだろうな…”と思いつつ、“いやそれでも何も返信ないのも寂しいだろうし…”と「多分違う場面だろうかとは思いますが…」と前置きをしながら返信を送ってみた。すると見事に、場面は違ったようで、数時間後スタンプで返されてしまった。
色々と贈ったものが、違う温度感で返ってくることが多い1日だった。
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良かれと思って贈ったものが、逆に迷惑だったかもしれない。人によって感じ方はそれぞれで、それは仕方のないことだとわかっていながら、なんだかどんどん自分の一挙一動に自信をなくしていった。
そんな時に、上記の書籍を思い出して再読した。何か、今の状況に照らされるようなことが書いてあったような気がする。すがるような思いだった。
格差を目の当たりにすると、なにかしなければ気持ちがおさまらなくなる。こうして引き出された行為は、自分の「うしろめたさ」を埋めるものでしかない。結果的につながるかわからないまま、行為せずにはいられない。
まさにわたしは、上記の事象は全て、気持ちがおさまらずに贈ったものだった。何度も下書きを消して、「それでも…」と思い贈ったものだった。
贈与は「結果」や「効果」のためになされるわけではない。そうするしかない状況で、自分がそうしたくて、他者に投げかけられる。(中略)効果があるとしたら、モースが言ったように、そこに「つながり」が生まれるだけだ。
ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。
それで、少なくとも世界の観方を変えることはできる。
「つながり」。
今回はどれも、仕事関係における、上司ー部下、先輩ー後輩と、どこか型にはまった関係性での出来事だった。上司であれば、それは当たり前に感じたことかもしれないし、後輩からしたら先輩である私の圧を感じていたのかもしれない。先輩からしたらとても忙しかったのかもしれないし、後輩である私の意見は全く参考の余地がなかったのかもしれない。
型にはまると、贈与はどこか届きづらい。それでも、それを贈ることで、もしかしたら一人でも社内に、「見つけてもらえた」と思える人がいるかもしれない。孤立を感じやすい在宅勤務の中で、相談できる人を見つけられるかもしれない。わたしはそんな「つながり」を大切にしたかったのだと思い出した。
今日、側(はた)を楽にできなくても、それでも、いつか誰かを楽にできることを信じて。効果を求めず、隠れたつながりにいつか光が当たることを願って。
わたしは明日も、自分のうしろめたさに敏感でありたい。
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