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無言社会,ニッポン?

【1】見知らぬ人とエレベーターに乗り合わせた時

▼ニューヨークを訪れた時,マンハッタンのホテルのエレベーターで驚いたことがありました。それは「乗り合わせた人と必ず挨拶する」ということです。「挨拶する」といっても,"Hi" とか "Good morning" とか "Have a good night" とか "Bye" といった軽いものですが,エレベーターに乗り合わせた時や降りる時,ほぼ必ずお互いに声をかけるのが常でした。

▼私は仕事の関係で日本国内ではホテルに年間120泊ほど泊まっていますが,日本のホテルでは人と乗り合わせてもことばを交わすことがほとんどなかったので,とても新鮮に映りました。もっとも,マカオを訪れた時にはあまりそうしたことがなかったので,「日本以外では」と一般化することはできないと思いますが。

▼以前,Twitterで「日本人は人と言葉をかわさない」という趣旨の書き込みを目にしました。実は私自身,ニューヨークでの先程の経験からなんとなくそんな感じはしていましたし,たとえば新幹線の通路など狭いところを通る時,無言で人をかきわける様子をしょっちゅう目にしているので,「ああ,やっぱりそうなのかな」とも実感しました。そうした光景に出会う時,せめて一言「後を通ります」とか「すみません」と言えば済むのにどうしてことばを発しないのだろう,ととても不思議な気持ちになります。

【2】「無言社会」

▼そんな折り,たまたま Amazon でこんな本を目にしました。

森真一『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』

▼著者は社会学者で,本書は学術論文というよりむしろエッセイ風の読み物として書かれていて,「あー,あるある(笑)」と言いたくなるようなエピソードがいくつも挙げられています。また,私が上に述べたような「言葉を交わす」場面だけでなく,「相手に苦情を言えない」といった内容まで含めて「無言社会」と呼んでいます。

▼筆者は無言社会の主な原因と考えられるものとして,「恥の文化,現代の恥意識」「日本的男らしさ」「隠すことや〈秘〉の共有」「やさしさへの甘え」「集団への気づかい」「声を出すことの〈重さ〉への抵抗感」といった要素を挙げています。そして,今後の日本は「無言社会」ではやっていけなくなるだろう,と問題提起し,無言社会を超えるにはどうすれば良いのかについて語っています。

▼もっとも,この「無言社会化」は,いまに始まったことではないようにも思えますし,ことばを交わすか否か,ということだけではなく,サウンドスケープ,つまり街中の「音」すべてとの関係も考慮に入れるべきなのではないか,とも思います。周囲がにぎやかであれば,大きな声を出さなければことばは届きませんから,声を出すことも許容されると考えるでしょう。それに対し,日本ではどの町でも比較的静かで,「無言社会」のみならず「無音社会」を目指しているようにすら思えます。

【3】類型化は本当に正しいことなのか?

▼ただ,私自身はこうした「社会の類型化・一般化」や「国民性」という概念的に対して懐疑的な見方も持っています。

▼ある人が何かの行動を行った時,私たちはその行動の理由をその人の特定のカテゴリーのせいにすることが多くあります。「彼がこんな行動をとったのは,彼が〇〇人だからだ」といったかたちで,その行動の理由を説明しています。

▼しかし,一人の人間は複数のカテゴリーに属しているものです。たとえば私は「男性」「日本人」「大人」「予備校講師」など,様々なカテゴリーに属しています。それにもかかわらず,私が何かの行動を行った場合,それは「〇〇というカテゴリーに属しているからだ」と理由づけされるのが普通です。

▼たとえば,新聞記事やニュースで事件を起こした被疑者について報じられる時,「容疑者は過去に精神科への通院歴があり」という文言が報じられることがあります。なぜ「精神科に通院歴がある人」というカテゴリーをそこで取り上げるのでしょうか?なぜ「容疑者は過去に耳鼻科に通院歴があり」と報じないのでしょうか?それは,「事件を起こしたのは〈精神科に通院歴がある人〉というカテゴリーに属しているからだ」という思い込みに基づいた報道に他なりません。いわば,「偏見」「ステレオタイプ」だと言うべきでしょう。

▼こう考えてみると,「本来,ことばを交わすべき(または,交わしてもおかしくない)状況でことばを交わさないのは,日本人だからだ」という考え方は,単なる「偏見」「ステレオタイプ」に過ぎないはずです。「日本は無言社会(無音社会)だ」という類型化も,それ自体が一種の「偏見」「ステレオタイプ」である可能性があるわけです。ある人がことばを交わさないのは,もしかしたらたまたま「気分が悪かったから」「言葉を発しようとしたけれど,タイミングを逃してしまい,相手がいなくなってしまったから」など,他に様々な理由があったからなのかもしれません。それを一概に「この人は日本人だからことばを交わさなかった」と判断することはできないはずです。

▼私たちは複雑なものをおそれ,単純化したいという願望を持っています。類型化もその一つのあらわれと言えます。もちろん,類型化そのものが悪いことではありません。複雑なものを複雑なまま受け止めることはできませんから,類型化は,ものごとを抽象化したりまとめたりして理解するために必要な能力ではあります。しかし,そうやって理解した枠組みがひとたび固定されて柔軟性を欠いた時,それは「偏見」「ステレオタイプ」へと転じ,さらに「差別」「排除」へとつながる可能性があるのです。

▼「日本は無言社会だ」という類型化に対し,私自身は「うん,確かにそんな気はする」と思う一方で,「でも,それは単なる偏見ではないのか,ステレオタイプになりはしないか」と自分自身に常に問い続けねばならないとも思っているのです。

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