スキーマを広げる(12):ポスト・トゥルース
▼ここ数年,よく見聞きするようになったキータームの一つに,「ポスト・トゥルース(post-truth)」という言葉があります。post-は「…後」「脱…」を表す接頭辞で,truthは「真理・真実」の意味なので,post-truthは「ポスト真実」とも訳されています。
ポスト・トゥルースの時代
イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ新大統領誕生など、世界の政治が大きく動いた二〇一六年。ワード・オブ・ザ・イヤーに「ポスト・トゥルース」が選ばれた。この言葉は、客観的な事実が重視されず、感情的な訴えが政治的に影響を与える状況を表している。
▼上のサイトにも書かれているように,2016年にワード・オブ・ザ・イヤーに選ばれたこの言葉は,2010年代後半から今に至るまでの社会状況を表したもので,「真実・客観的事実を超えたところに物語を求める」人々の在り方を表しています。とりわけ,SNSで偽情報が大量かつ瞬時に出回る現代社会では,客観的な事実から目を背け,自分の信じる「物語」をひたすら声高に,感情的に主張する人々の意見が急速に拡散され,「悪貨が良貨を駆逐する」かのごとく,「真実・客観的事実」にとってかわられようとしてきました。
▼つい先ごろ行われたアメリカ合衆国大統領選挙におけるトランプ大統領の「これは不正選挙だ」という主張もその一つの例だと言えるでしょう。選挙の得票数という客観的な事実を無視し,自分にとって都合の良い「物語」を声高に主張することで,その「物語」を支持者が拡散する,という構図です(ついでに言えば,これは,不正が「あった」ことを証明するのは容易いかもしれませんが,不正が「なかった」ことを証明するのは極めて難しい,という「悪魔の証明」を利用した戦術とも言えます。)。
▼日本では,そうした自分にとって都合の良い「物語」を声高に叫ぶ政治家は欧米に比べれば少ないかもしれませんが,安倍元首相の「美しい国・日本」「日本を取り戻す」といったスローガンはそれに近かったと言えるでしょうし,最近では「大阪都構想」と称しておおさか維新の会が主導した「改革」も,「ポスト・トゥルースの政治」の一つと言えるでしょう。これは住民投票では否決されましたが,きわめて僅差で否決されたということがその根深さを物語っています。あの住民投票を見て,Brexit(イギリスのEU離脱) の国民投票のことを思い出さずにはいられませんでした。Brexitは僅差で成立してしまったのですが。
イギリスのEU離脱是非を問う国民投票では、離脱派は様々な嘘をついた。離脱派のリーダーの一人イギリス独立党党首ナイジェル・ファラージは投票前、EU加盟の拠出金が週3億5千万ポンド(約480億円)に達すると主張していたが、これは誤りだった。残留派は、EUからイギリスに分配される補助金などを差し引くと拠出金は週1億数千万ポンドだ主張していたが、ファラージは選挙後に残留派の金額が正しいと事実上認めた[30][31]。投票前の世論調査ではEU残留派が優勢と思われていたが、趨勢が逆転[31]。デーヴィッド・キャメロン首相は緊急記者会見を開いて離脱派の嘘を指摘し説得を行ったが[31]、離脱派がわずかな差で勝利した[8]。結果が出たあとになって、離脱派の中心人物たちが公約の前提に誤りがあったと認めたり、公約の一部を「下方修正」した[8][30]。離脱派の嘘に批判が噴出し、「嘘を信じて投票してしまった」と後悔の声があがり、再投票を求め400万人以上の署名が集まった[8][30]。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB )
▼また,少しさかのぼれば小泉純一郎元首相が「聖域なき構造改革」「痛みを伴う構造改革」「自民党をぶっ潰す」「郵政民営化」「抵抗勢力」といったスローガンやキーワードを掲げて圧勝したのも,彼らにとって都合の良い「物語」を国民が受け入れたことが原因だったと言えるかもしれません。当時はインターネットがまだ発達していなかったので,対抗する情報が共有されていなかったということも大きかったでしょう。その意味では,世論を大きく左右したマスコミも間接的な共犯者だったと言えます。
翻って日本の状況はどうか。確かに日本でも、ネット右翼という言葉が象徴するとおり、インターネット利用の拡大にともなって、左右両極の言説がそれぞれ顕在化している。しかし、欧米と比べて、有権者レベルにおいて人びとの政治的分極化が進んでいるという議論はそれほど強くない。人びとの党派性を補強するという意味でのフェイク・ニュースの作用は相対的に小さいが、逢坂巌・駒澤大学准教授の見立てでは、無党派層の多い日本なればこそ、マスメディアやインターネット上の誇張されたニュースに世論が雪崩を打って反応しやすく、時には政権の帰趨まで左右しうる。虚偽または誇張された情報が説得効果をもちやすい分、潜在的なインパクトは日本の方が大きい、という訳だ。
(https://www.nira.or.jp/outgoing/vision/entry/n170911_868.html)
▼そうした意味においては,真実を隠し,都合の良い「物語」を掲げて住民を騙す,という構図は「ポスト・トゥルース」という言葉ができる以前から見られた現象ではあったわけですが,Brexitやトランプ政権誕生などにみられる類似した現象を一つにまとめ,端的に表した表現として「ポスト・トゥルース」という言葉は非常に言い得て妙であると言えます。
「大学入試改革」もポスト・トゥルース
▼2020年1月でセンター試験が廃止され,2021年1月から導入される「大学入学共通テスト」を中心とした一連の大学入試改革も,「ポスト・トゥルース」の政治を象徴する具体例だと言えるでしょう。
▼大学入学共通テストの「目玉」は,①英語で民間検定試験を導入し「四技能」の測定を行う,②国語と数学で記述式問題を課す,というものでしたが,これらはいずれも頓挫しました。①については,「日本人は中学・高校と6年間英語を勉強しているのに英語が話せるようにならないのは,読み書き中心の受験英語のせいだ」という「物語」(しかも,これまでさんざん使い古されてきた物語)が用いられ,②については,「マーク式試験では思考力を測ることはできない」という「物語」が用いられました。いずれも客観的・科学的に裏付けられた何のエビデンスもないにもかかわらず,また,それとは逆の裏付けを提示しても,聞く耳を持たずに推進されてきました。
▼それがいきなり頓挫したのは,①については20019年11月,については2020年12月のことでした(ちなみに,これにより,大学入試センター試験で順守されてきた「2年前に全て決定して発表する」という「2年前ルール」も破られたことになります)。
▼しかし,頓挫したのは,科学的・客観的な事実が勝利したためではありません。①については当時の萩生田文部科学大臣が「身の丈に合った受験を」と発言したことがきっかけで炎上し,②については採点の公平性の問題など,諸々の不備を指摘されたことや,採点を引き受けた企業・団体の不透明性の問題などが指摘されたことによるもので,結局のところ「科学・学問の勝利」などではなく,与党が支持率低下を恐れてひっこめただけ,という政治的経緯によるものでした。
なぜ人は「ポスト・トゥルース」に惹かれるのか
▼では,なぜ人は真実・客観的事実より,ある意味荒唐無稽な「物語」を信じてしまうのでしょう。思うに,私たちがものごとを単純化し「わかりやすいもの」を求める傾向があることがその大きな要因の一つではないでしょうか。科学的に立証された事実は複雑でわかりにくいことが多いのに対し,そうした複雑さを排除した「物語」は一見わかりやすく,かつ,受け手にとって不都合な真実・事実は隠されたままですから,受け手としてはその魅力的な「物語」を受け入れるしかなくなるのです。
▼逆に,その「物語」に対して反論するためには,複雑で不都合な真実・事実を根気強く提示するしかありません。先に引用した記事では「ファクトチェックの重要性とその課題」が指摘されていましたが,残念ながら「わかりやすく,耳に心地の良い物語」を提示するよりも,「複雑で不都合な真実・事実」を説得的に提示することの方が,コストがはるかにかかります。とはいえ,「わかりやすく,耳に心地の良い物語」を鵜呑みにした結果,それまで隠されていた不都合な真実と直面せざるを得なくなれば,人ははるかに大きなコストを負担せざるを得なくなるのですが。
それでは、いかにしてポスト・トゥルースの政治に対抗すべきか。
まず挙げられるのは、政治家らの発言が事実かどうかを確認し、人びとに知らせる「ファクトチェック」である。二〇一五年には、国際ファクトチェッキング・ネットワーク(IFCN)という団体も設立された。日本でも、『朝日新聞』や『東京新聞』などでファクトチェックの記事が掲載されるようになったが、その先駆者である朝日新聞政治部の園田耕司記者は、ファクトチェックを社会のウオッチ・ドッグ(番犬・監視役)というマスメディアの役割を果たすための手段と位置付けるとともに、第四権力と呼ばれるメディア自身の在り方をも検証の対象とし、もって研ぎ澄まされた事実を伝えるプロフェッショナル・ジャーナリズムを全うするとの抱負を述べている。こうした動きは、インターネットメディアでも始まっている。本企画では、バズフィード・ジャパンの古田大輔創刊編集長が、SNSなどで広がっている情報を検証して、うそを見破る「デバンキング」という先進的な試みを紹介している。
もちろん、ファクトチェックにも課題は残る。虚偽が広まる前に正確な検証を行なうスピードとコスト負担の両方が必要な上、検証結果が「この部分は正しいが、その部分は誇張、あの部分は誤り」などと読みづらい記事になってしまうこともしばしばだ。さらに、真正性よりも自分との親和性を情報選別の基準にする人びとが、ファクトチェックを受け入れるとは限らない。
病気の克服には治療薬の開発と並んで予防策の普及が有用であるように、ファクトチェックやプロバイダーの責任などの制度整備と同時に、迂遠ではあってもわれわれの情報リテラシーを高める不断の努力も忘れてはならない側面だろう。
(https://www.nira.or.jp/outgoing/vision/entry/n170911_868.html)
大学入試におけるpost-truth
▼ちなみに,大学入試の英語でpost-truthという言葉をメインとして出題された英文はまだ出されていないと思われますが,2020年度の慶應義塾大学総合政策学部ではそのものずばり,Lee McIntyre, "Post-Truth" (2018) という書籍から出題されています。
▼また,2020年度東北大学前期日程でも,Julian Baggini, "A Short History of Truth: Consolations for a Post-Truth World" (2017) から出題されました。
▼今後,上記の著作のような「人は,不都合で複雑な客観的事実から目をそらし,自分にとって都合の良い〈物語〉を受け入れるバイアスがある」というポスト・トゥルースの在り方を批判的に検討する書籍や記事からの出題は増加するのではないかと思います。また,それに伴い,post-truth という単語がいずれは英文を読む前提となる背景知識として求められる時代も来るのではないか,とも考えられます。既に2018年度高知工科大学では以下の記事を引用した出題を行っています。
One teacher explained why a change was necessary. She said school is usually divided into subjects and facts that students must learn. She said real life is not like that because our brain is not divided into topics. She added that students needed to think in a broader way. They must think about the problems in the world, like migration, the economy, the post-truth era. She questioned whether today's children get the tools to deal with such an inter-cultural world. She warned it would be a big mistake to let children believe that the world is simple, and that all they need is facts.
(ある教師が,なぜ変化が必要なのか説明した。彼女が言うには,学校は常に学生が学ばねばならない科目と事実に分けられているということだった。彼女いわく,現実の生活はそのようなものではない,というのも,私たちの脳は話題別に分けられてはいないからだ,ということだった。彼女は,学生がより広いやり方でものを考える必要があると付け加えた。学生は,移民,経済,ポスト・トゥルースの時代といった世界の諸問題について考えねばならない。彼女は,現代の子どもたちがそのような多文化の世界に対処するツールを有するのかどうか疑問視した。子どもたちに,世界は単純だと信じさせるのは大きな誤りであり,彼らが必要とするのは事実だけだ,と彼女は警告した。)
▼この文中にはpost-truth eraという表現が登場しますが,特に定義や注釈もなく,本文から意味が類推できるわけでもありません。設問としてはこの単語の意味が分からなくとも解答できるものでしたが,今後,こうした「前提となる背景知識としてのpost-truthという言葉」が出題される機会が増えていくのではないでしょうか。