【第29回】性差は無くすべきなのか? 『ジェンダーと脳』批判(1)
今回からが第2部である。これまでとは別のアカウントで書くことにしたのだが、これは、一つ目のアカウントが男女の生物学的な差異に焦点を当てた内容だったのに対し、ここから先は「その上でどう考えるか?」という思想的な話を中心とした、かなり性質の違うものになっていくからである。興味を持ってくれる人たちの層も多少違ってくるのではないかと思う。また、noteは仕様上、記事を増やすほど過去の記事が読まれにくくなるので、これまで書いたものが埋もれないよう一区切りつけた、というのもある。
さて、私は「【第27回】『脳の男女差』とは?」で、イスラエルの神経科学者ダフナ・ジョエルが提唱する「モザイク脳」〈注1〉という考え方を受けて、性差について次のように考えるべきだと書いた。
・性差とは「個々の性質ごとに観察される男女比の偏り」のこと
・「男性は○○で、女性は△△」というように男女を主体にして捉えるよりも、「○○な人には男性が多い」「△△な人には女性が多い」というように、性質の側を主体にして捉えるのが性差というものの正確な理解
さらに第28回で以下のようにも述べた。
ジェンダー論やフェミニズム系の論者は ② を警戒する一方で、① の可能性には触れないか、触れても認めたがらない傾向にある。なかにはこの「生得的な男女差」の存在を認める論者もいるだろうが、おそらくそういう人も「生まれつきの性差はあるにしても、それが文化的に強められる傾向はできるだけ解消し、人々が性別という枠組みに捉われない社会にしていくべきだ」と主張するのではないかと思う。
これは一見、良い考えのように思えるし私も部分的には賛成である。実際そうした社会になることで生きやすくなる人もたくさんいるだろう。しかし一方で私は、こうした考えを手放しで肯定する気にはなれないのだ。
どうしてか? 人間が有性生殖をする生き物だからだ。現在のところ、私たちは最新の科学技術をもってしても人間をゼロから作りだすことができない。これだけテクノロジーが発達した21世紀の今もなお、人間は基本的には男女がセックスすることでしか新しい命を生み出すことができないのだ。
数十年後の未来には対外受精と人工子宮を組み合わせて性行為を介さずに(どころか母体すら介さずに)子供を作る技術が確立されるのでは、という予測もあろう。しかし今のところ実現の目途は立っていないようだし、実現したとしても、そうした技術が広く社会に普及するまでにはさらに数十年の時間を要するだろう。私たちは今後も当分の間、男女間の性行為を通してしか子供を作れないという生き物としての宿命から抜け出せないのだ。
しかも、人間は意外と妊娠しにくい生き物である。
(ヒトの近縁種であるチンパンジーも同様で、一度の妊娠のために1000回近くもの交尾が必要だという〈注2〉)。
身も蓋もない言い方をすれば、社会が一定の人口規模を維持していくためには多くの男女が(子を持つつもりで)何度も性行為をする必要がある。一夫一妻を原則とする現代社会ではこれは特定の男女同士の継続的な関係の中で行われるのが望ましいだろう。
そのためには、なるべく大勢の男女が互いに「異性として」魅力を感じ、惹かれ合い、カップルになる必要がある。
人間的な魅力と性的な魅力は(重なる面もあるとは思うが)必ずしも一致するわけではない。男女が性的な関係を持つには、互いを「人として良いと思う」だけでは足りず「異性として魅力的である」と感じる必要がある。そして、それを促進するにはやはり一定程度、男女の文化的な差異が必要なのではないか、というのが私の考えである。言い換えれば、「男らしさ」や「女らしさ」という観念がゆるやかにでも社会の中で維持されていた方がよいと思うのだ。
これまで述べてきたとおり、私はダフナ・ジョエルの「モザイク脳」論を基本的に支持しているのだが、こうした「『男性性』や『女性性』についてどう考えるか」という点ではジョエルとは全く立場が異なる。
〔次回に続く〕
注
〈1〉ダフナ・ジョエル、ルバ・ヴィハンスキ『ジェンダーと脳 —性別を超える脳の多様性—』(紀伊國屋書店、2021)を参照
〈2〉古市剛史『あなたはボノボ、それともチンパンジー?』朝日新聞出版、2013、p.90-91
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