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2020/10/03 舞台「いきしたい」 観劇レビュー

公演タイトル:「いきしたい」
劇団:五反田団
劇場:こまばアゴラ劇場
作・演出:前田司郎
出演:谷田部美咲、岩瀬亮、浅井浩介
公演期間:9/25〜10/5
個人評価:★★★★★★☆☆☆☆

初めて五反田団の作品を観劇。
凄く説明の難しい会話劇、個人的には過去の恋愛に対する未練を描いた作品だと解釈した。
ひたすら男2人、女1人の会話のやり取りが続いていくのだが、後半の小劇場ならではの照明効果や演出された空気感によってグイグイ引き込まれていった。まさに生の舞台でこそ味わえるエモい雰囲気、感覚が凄く堪能できる贅沢な1時間だった。
そして役者一人一人の演技力の高さにも驚いた。特に岩瀬亮さんと谷田部美咲さんの演技力がとても迫力あって、最前席で観劇していた私は圧倒された。
コロナ禍による自粛期間後で、もっとも生の舞台としての醍醐味を存分に発揮させた芝居に出会った感触だった。


【鑑賞動機】

以前から五反田団という劇団の名前は知っており、一度は舞台を拝見したいと思っていたから。今年の4月に「愛に関するいくつかの断片」を観劇しようと思っていたが、コロナ禍による自粛要請で中止となったので、今回の観劇が初めてとなった。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

旅行に行こうと荷造りの準備をしている男(岩瀬亮)と女(谷田部美咲)、しかし肝心の旅行の行先は決まっておらずパンツを何着持っていく云々の会話をしている。海に行くのが良いじゃないかという流れになる。
そこへ男が男性の死体(浅井浩介)を運んでくる。その死体は女の元夫で5年前に死亡していた。この死体をどうするか話し合うが、アパートに置いたままにするのも物騒なので一緒に車に乗せることにした。
ところがその死体が自ら動き出すことに気づいた男は奇妙がり恐る恐る花を顔に置いたところ、死体は普通に起き上がり会話を始める。驚いた男はその死体に生きているのかと問うと、死んではいるが動いたり話したり出来るのだと答える。男は混乱し、それは生きているんだと主張するが、死体のはずだった男は死んでいることを主張する。
死体のはずだった男は、自分の存在というのは曖昧で、記憶や言語の集合なんだと話す。

3人は車に乗り男が運転をする。しかし、女の横に座っている死体のはずだった男は、やがて女といちゃつき始める。その光景に耐え兼ねた男は苛立ち、その女は自分の女なのだから手を出すなと主張する。
車から降り、女は自分のパンツを買ってくるように男に言う。死体のはずだった男に女の時間を奪われてしまうことに憤りを覚えた男は、パンツくらい自分で買ってくるように言う。次は女と死んだはずの男二人でパンツを買いに行こうとし男を置いて行こうとする。それも嫌だと男は女を引き止める。3人で行くのもおかしいと男は言い、結局誰がパンツを買いに行くかすら決まらない。
そこへ女が突然男に対して、お前も本当はここには存在していないと告げる。女の話では男は少し前に実家に戻ると言って女と別れ、今は同棲していないことを明かす。男は自分自身も死んだはずの男と同じここにはいない存在であることを悟りその場を去る。

死んだはずの男と二人きりになった女は、死んだはずの男に暗い場所に連れて行かれる。暗くて自分がそこにいる感覚も自分の存在が見えにくくなることによって曖昧なものに変わっていく。女の息遣いが荒くなっていく。死んだはずの男に力一杯引っ張られる女、あなたは誰なの?と恐怖から叫び声を上げる。
下手から光り輝く何かを袋にいれた男が現れる。死んだはずの男は、もうちょっとで死の世界に入れたのにと悔しがる。男はパンツを買ってきたと、光り輝くパンツを見せる。狐につままれたような顔を浮かべる女。光り輝くパンツは所望していないと言う。

折角海に来たのだし、海に入ろうと男たちは言う。女にも海へ入ろうと誘うが水着を持ってきていないしこんな夜だからと断ってしまう。女を置いて男二人は海に入る。その様子を女は眺めるところで物語は終了する。

とてもストーリーに脈絡がなくて解釈に困る作品だった。その中でも個人的に見えてきたテーマは、過去の恋愛に対する男女3人それぞれの未練と、自分の存在とは何かという問題提起だと思った。浅井さん演じていた男性は死によって、岩瀬さん演じる男は何らかの理由による実家への帰省によって好きだった女に対する未練だけが残ったまま、二人の関係性は終わってしまった。だからこそ、男性二人は女ともっと一緒にいたかった訳で、その思いが現れて今回の作品のようなことが起こってしまったのではないかと思った。
この作品については、「作品の深み」で詳しく解釈する。


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

とにかく、小劇場らしさを追求した演出がとても効果的で、これだからこそ生の舞台は良いものだと改めて感じさせてくれる作品だった。ここまで生の芝居は良いものだと感傷に浸れた作品はコロナ禍による自粛期間以降に観劇した作品の中ではなかったかもしれない。

まず舞台は素舞台に近くて、舞台中に引越しで荷造りされているような段ボールの箱が散乱している空間となっている。
出ハケは下手側に地下にある楽屋へと繋がっている階段が一つと、上手側に一つ。その他は何もない。

この舞台はなんと言っても照明と音による演出が凄く効果的だった。
まずは照明だが、あの青く暗い雰囲気の照明が世界観をちょっぴり不気味な感じに作り上げている所が凄く素敵だった。そして照明も暗闇に入るまでのシーンでは大きく変わる箇所はないのだが、徐々に照明のカラーを変えていっている部分に物凄くこだわりを感じた。
そしてなんと言っても惹きつけられたシーンが、物語後半の暗闇のシーン。あの完全に暗転するのではなくて、若干役者の輪郭が見えるくらいに暗転しているあたりが凄く良い。そして、谷田部さん演じる女の息遣いがどんどん荒くなっていって、浅井さんの声がどんどん不気味になっていくのも凄く好きだった。こちら側もどんどん恐怖へと吸い込まれていく。こんな演出は絶対に映像配信なんかでは伝わらないし、小劇場でこそ体験できる貴重な舞台体験だった。
また、岩瀬さん演じる男がコンビニの袋に明かりを入れて入ってくるシーンの雰囲気も好きだった。その光り輝く袋が岩瀬さんを中心に周囲を明るく照らし、ちょっと女が救われたような雰囲気を上手く作り出す。こちらもやはり映像配信では伝わらない、生の舞台だからこそ味わえる空間だと思った。

その他では、椅子に座って3人で車に乗っている演出で、最初は岩瀬さん運転、助手席谷田部さん、後方席浅井さんだったのが、上手側にキャストが向きを変えた瞬間に谷田部さんと浅井さんが後方席で隣同士になる演出が凄く新鮮で見入ってしまった。そこで一気に作品に引き込まれたような感覚に自分は陥った。あそこで、一気に女の気持ちが岩瀬さんから浅井さんに傾いた瞬間で物凄く効果的で好きだった。
また、その後の谷田部さんと浅井さんが徐々に手をつなぎ合って、谷田部さんが浅井さんに寄り添っていくシーンがなんともエモかった。エモいの一言。あそこまで自然に演技で寄り添えるって凄いことだと思えるし、このエモさも小劇場ならではで感じられる演出だと思った。


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

出演した役者3人についてそれぞれ見ていく。一言で感想を言うと、小劇場だからこそ伝わる演技力の凄さに圧倒された。

まずは男を演じた岩瀬亮さん、個人的には3人の中で一番好きな役者だった。とても言葉一言一言がはっきりしていて覇気を感じるその演技は、物凄く見ていて飽きなかったし自然と惹きつけられる魅力をも持っていた。
特に印象的だったのは、女と死んだはずの男がいちゃつき始め苛立つシーン。その苛立ちは、しっかりとした台詞にはなっていなくて、「アー」とか「クー」とか喚く言葉が多いのだがしっかりと感情が伝わってくる。あそこはかなりアドリブ要素が強いだろう。そこをばっちり演じられる岩瀬さんの演技力の高さを痛感した。

次に女を演じた谷田部美咲さん、彼女は岩瀬さんとのやり取りと浅井さんとのやり取りで大分キャラクターを変えているように感じた。これも演出なのだろうか。岩瀬さんと一緒にいる時の女は友達感覚的な明るい感じなのだが、浅井さんといる時は物凄く女になっている気がする、色気を凄く感じる。そう言う点でもこの女は浅井さん演じる男性に本能的に気持ちが傾いていたのかなんて考えさせられる。
それと、彼女は顔の表情を上手く使って演技をする方だと思った。非常に顔による表現のバリエーションが多くて、それだけでも見ていられた。
また、なんといっても暗闇のシーンの恐怖に怯える演技はとても見応えがあって好きだった。どんどん荒くなっていく息遣い、「離して!」「あなた誰なの?」という恐怖を感じた台詞は脳裏に焼き付くほど印象的で何もかもが完璧だった。

最後に死んだはずの男を演じた浅井浩介さん、あの存在感が好きだった。そして、暗闇のシーンでの不気味さを徐々に出していく感じも好きだったが、もうちょっと恐怖を煽る演技でも良かったかもしれない。


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、この作品のテーマと解釈について個人的に思ったことをつらつらと書いていく。

先ほども書いたようにこの作品のテーマは、過去の恋愛に対する未練と自分の存在に対する問題提起だと思っており、実際演出家の前田司郎さんも挨拶にこう書いている。

「自分は何かって考えるといつも、自分は記憶で出来ていて、その記憶は改ざんされたり、紛失したり、作られたりして、結局、確固たる自分などないのではないかと思えて、そんなあやふやな自分が感じている愛だとか憎しみだとかって一体なんだろうと、そんなことばかり考えている。」

確かに、自分とは時間と共に耐えず変化するものである。小さい頃の自分と年老いた自分との相関関係はとても低く、もはや別人といっても過言ではないという研究結果があるというのを聞いたことがある。そのくらい自分というものは曖昧なものであり耐えず変化し揺らいでいる。
私は以前観た「海獣の子供」というアニメーション映画のことを思い出した。この映画でも、人間は意識や記憶の集合体と説明するシーンが存在する。意識は耐えず変化するものだし、記憶だって新しいことが起きればどんどん上書きされ、過去の記憶は印象の弱いものから消え去っていく。時には改ざんされることもある。決して事実ではない思い込みによる記憶だって存在する。
今作の中でも、浅井さんが演じる男は自分という存在に囚われず、死んでいてもなお意識だけは見える形であるといった状態で登場する。まるで演出家の前田さんが自分という存在に対して感じているものを究極に体現したものである。
また、結果的には岩瀬さん演じる男もそういう存在だった。女に指摘されて悟るのだが、その場にいるはずのない存在だった。個人的には生き霊みたいなイメージかなと思った。

彼ら二人がその場にいないのに、その場にいる存在であるのは、一重に女に対する過去の恋愛の未練があるからである。彼らに残った記憶から、改善されたり上書きされてしまう曖昧な記憶から作られた過去の恋愛に対する未練によってその場に存在する。
ラストの男二人が海の中へ入るが、女だけは海には入らなかったというシーンの解釈がとても難しい。序盤にも登場するが、「海に入らないと海に行ったことにはならない」「アメリカへ入らないとアメリカに行ったことにならないのと一緒」という台詞がキーになるのだろう。ということは、男二人は海に行ったことになるが、女は海に行っていないということになる。これはどういうことだろうか。
おそらく海と陸は死の世界と生の世界のメタファーだと個人的には思っている。男二人は現実世界では死んでいるが、未練という記憶だけで存在していた。一方で女は今でも生きており、一度は海に行こうとした、つまり一度は死を選ぼうとしたことを意味するのではないかと思っている。実際、浅井さん演じる男のことを好きになり、そのまま死の世界へ連れて行かれそうになっている。だが彼女は自分の意志で死の世界へ向かうことを拒んだ。これによって、過去の恋愛に対する未練を断ち切ったというストーリーなんじゃないかと私は解釈した。果たして合っているのだろうか。

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