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舞台 「解体青茶婆」 観劇レビュー 2021/07/03

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【写真引用元】
劇団扉座公式Twitter
https://twitter.com/tobiraza/status/1390577412690243584/photo/1


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【写真引用元】
劇団扉座公式Twitter
https://twitter.com/tobiraza/status/1390577412690243584/photo/2


公演タイトル:「解体青茶婆」
劇場:座・高円寺1
劇団:扉座
作・演出:横内謙介
出演:有馬自由、砂田桃子、岡森諦、山中崇史、犬飼淳治、新原武、中原三千代、鈴木利典、小川蓮、吉村知子(ヴァイオリン奏者)
公演期間:6/26・27(厚木)、6/30〜7/11(東京)
上演時間:約120分
作品キーワード:時代劇、医療、生演奏
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆


横内謙介さんが主宰する劇団扉座の創立40周年記念公演ということで扉座としての新作を観劇。
横内さんの戯曲は「いとしの儚」を東京夜光の川名幸宏さんが演出した舞台作品を観劇したことあるのみで、横内さんが演出する舞台作品の観劇は初めて。

今作のストーリーは、日本の蘭学者として名高い杉田玄白を主人公とし、年老いた彼は、青茶婆という40年前に罪人として斬首されて「腑分け(人体を切開し、臓器や組織の形態、構造、相互の位置関係などを調べること、全身解剖)」された女性の亡霊に取り憑かれた。
その原因を探って40年前の「腑分け」に至った真実に迫っていくというもの。

杉田玄白・前野良沢らの蘭学者と言ったら、日本に西洋の医学書「解体新書」が持ち込まれてそれを翻訳したことによって、日本のその後の医療の礎を築いた人物たち。
それまで東洋の漢方を頼り、まるで似ても似つかない人体図を手にしながら治療を行ってきた医学療法に新しい風を吹かせた。
今作品からは医療へのリスペクトを物凄く感じられて、真実を追求するという意味において近しい理系出身の自分にとっても凄く嬉しい作品テーマだと思った。

また、ヴァイオリンの生演奏と本物のロウソクによる灯りによって雰囲気作られた、澄み切った江戸時代のお屋敷の舞台装置は荘厳なもので、非常に贅沢で落ち着いた空間がそこにはあった。

横内さんが「再演を繰り返してゆける作品になった」とおっしゃっていたが、まさにその言葉に相応しく後世にまで上演され続ける作品になり得ると思った。
多くの人、特に時代劇が好きな人にオススメしたい。

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【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/434349/1618007


【鑑賞動機】

劇団東京夜光が上演した「いとしの儚」を観劇して、その脚本に魅力を感じてから横内さんの作品を観劇したいと思っていた。そんな中、扉座が40周年記念公演を上演するということだったので、作品テーマである「蘭学」「医療」にも興味を惹かれて観劇しようと思った。期待値はやや高め。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

蘭学者である杉田玄白(有馬自由)は83歳という高齢であり、度々便所まで間に合わず尿を漏らしてしまっていた。ある晩、玄白は自身の屋敷で青茶婆(中原三千代)という老婆に出会う。青茶婆は仕切りに着物を脱いで自身の体を曝け出していた。そこへ玄白の娘の蘭(砂田桃子)がやってくるが、彼女には青茶婆が見えていないことが分かり、玄白は青茶婆が自分にしか見ることの出来ない亡霊か錯覚なのだと知り慌てふためく。その瞬間青茶婆が、まるで「腑分け」でもされるかのように体内の臓器を体外へとぶちまけ始める。玄白は大声を上げて助けを求め、蘭や屋敷に住む門弟たちに助けられる。

翌日、玄白が幻覚として見た青茶婆のことについて、蘭学における玄白の後継者である大槻玄沢(山中崇史)、一時期破門を食らったが許された玄沢の後継者の宇田川玄真(新原武)、玄白の門弟の友田徳庵(鈴木利典)と江口熊次郎(小川蓮)で玄白の屋敷で話し合った。
どうやら青茶婆は40年前に罪人として斬首され、その死体を千住の骨が原にて、杉田玄白と当時彼の蘭学者の同士であった前野良沢と中川淳庵の3人の「解体新書」翻訳の参考のために「腑分け」された人物であったことが分かった。しかし、昔のことなのでそれ以上のことは分からず、前野良沢も中川淳庵も亡くなっているため、薄っすらと当時のことを覚えていた玄沢が、青茶婆の「腑分け」を玄白に伝えた奉行の得能万兵衛なら何か知っているかもしれないと思い、彼に連絡を取ることになる。

またその話し合いで、玄沢の後継者である宇田川玄真のことについても話題に上がった。玄真は玄白の元で蘭学を学ぶ優秀な門弟であり玄白の娘である蘭の許嫁でもあったのだが、女たらしであるだけでなく女の趣味も悪くて身分の低い女や持病を持った女と寝たりをしていたため破門処分をくらっていた。そして、玄白は本来なら玄真に嫁ぐはずだった蘭をずっと自分のそばに置いた。しかし、玄白は玄真が優秀な人材であったこともあり破門を解いて再び復帰させ、玄沢の後継者として育成することになった。
玄真は、このことについて非常に感謝の言葉を玄白に述べていた。
夜、玄真と蘭が二人きりになる。玄真は蘭に仕切りに以前女たらしで非常に蘭に迷惑をかけたことを詫びる。蘭は冷たい素振りで「謝らなくて良いです」と言う、そしてその分蘭学に打ち込むようにとも言う。

数日後、玄白の屋敷に得能万兵衛(岡森諦)がやってくる。玄沢、玄真、そして門弟たちも集まってくる。
万兵衛は青茶婆について語り始める。青茶婆はそれはそれは極悪な罪人で、何人もの民を殺していた。そして時の将軍である徳川家治の妻は、その青茶婆の姿を見て気絶してしまったという。将軍の正室を気絶させてしまうような罪人は、ただ捕らえて死刑にするだけでは十分な裁きではないと判断し、青茶婆を獄中で改心させてから死刑にしようということになったと言う。
しかし、獄中で捕らえられた青茶婆の行いは酷いものであり、周囲の人に悪口を言ったり糞を投げつけてきたりという始末で、獄中に勤める者は皆青茶婆に近づこうとする者がいなくなっていた。しかし、たった一人だけ青茶婆に何をされてもずっとそばに居続ける人物がいた。その名を虎松という男であると言う。
そして万兵衛は、青茶婆が獄中から斬首されて「腑分け」に至る部分に関して虎松なら詳しいことが分かるかもしれないが、彼はあまり青茶婆のことを語りたがらないのだと言う。

その後、万兵衛、玄白、玄沢たちは久々の再会ということもあって夜遅くまで飲み明かしていた。
酔っ払った状態で玄沢が屋敷に戻ってきて蘭と二人きりになる。玄沢はふと蘭に、なぜ「解体新書」の著者に前野良沢の名前がないのかと尋ねる。当時オランダ語で書かれた「解体新書」を手にしていたのは、杉田玄白と前野良沢のたった2人、2人は協力してどこにも辞書が存在しないオランダ語を必死で翻訳しながら読み進めた同士だった。その上、杉田玄白は最初は全くオランダ語を読めない・話せない状態であった一方、前野良沢は多少はオランダ語を話せたため翻訳にも玄白よりも大きな貢献をしたはずである。
なのになぜ「解体新書」の著者に前野良沢の名前が一切出てこないのか疑問に思っていた。蘭もそのことに関しては何も知らず、死んだ前野良沢と杉田玄白の間で何かあったのではないかと推察する。

その晩、玄白の元に再び青茶婆が姿を現す。しかし、今回の青茶婆の様子は以前と違っていた。玄白にすがりつき、息子を助けて欲しいと懇願するのであった。
翌日、玄白が昨日も青茶婆が姿を現し、息子を助けて欲しいと懇願されたことを話すと、万兵衛はそれはもしかしたら虎松のことかもしれないと、何としてでも虎松を連れ出して青茶婆のことについて本当のことを話してもらおうと決意する。

そして万兵衛の力もあって玄白の屋敷に虎松(犬飼淳治)を連れてくることに成功する。
虎松は非常に汚い服装で怯えながら入ってくる、玄白様のお屋敷に自分が入ることが恐れ多いことだと思うばかりに体をブルブル震わせて、ずっと下を向いていた。虎松は、万兵衛から青茶婆のことについて本当のことを話すように言われる。虎松は少しずつ語り始める。
虎松は青茶婆のそばについて彼女の世話をしていた。最初は悪口を言われたり糞を投げつけられたりしていたが、虎松がいつも唱えていた念仏を耳にすると、やがて青茶婆も虎松に合わせて念仏を唱え始めたのだと言う。青茶婆は虎松によって改心させられたのだ。そのうちに虎松はいつしか青茶婆に情が移ってしまっていた。
虎松は普段、穢多非人の身分として死刑を行ったり、その後始末を担当していたが、情の移ってしまった青茶婆の死刑執行だけはどうしても引き受けられなかった。ついに青茶婆の死刑執行の日がやってきて、虎松にその依頼が来てしまった時、虎松は初めてその役目から逃れようと姿を消した。しかし、その青茶婆の死刑執行とその「腑分け」というのは、蘭学者の杉田玄白らが「解体新書」の翻訳を行う上で必要な大事な仕事であったことを後に知り、非常に職から逃れたことを後悔し続けていたということを語る。
虎松は泣く泣く真実を語ったが、玄白はそのことを許し、もう過去のことは気にせんで良いと言ってくれた。これによって、虎松が長年背負い続けて来た罪は贖罪され、青茶婆もそれ以来玄白の元へ姿を現さなくなった。

玄白は語る。散々酷い罪人だと言われ続けてきた青茶婆だったが、驚いたことに「腑分け」を行った所、青茶婆から出てきた臓器は決して黒ずんでいたりするものではなく、普通の人と同じ「解体新書」に登場する人体図と同じ臓器だった。この事実は、なかなか世間一般的に受け入れられるものではなかった。士農工商穢多非人の身分制度が確立した江戸時代において、全ての人間を平等に扱うことは常識の範疇を越えてご法度でもあった。そのため、「解体新書」を翻訳した内容はなかなか世間一般に容易に広められるものではなかった。下手をすれば、オランダの書物を持っているだけで罪にかけられる可能性もあった。
しかし、玄白も良沢もこの「解体新書」に書かれていることを広めることが、日本の医学を大きく進歩させるために必要であると信じて止まず、そこに対して全力を注いだと。
そこへ蘭が、それではどうして「解体新書」の著者に前野良沢の名前がないのかと尋ねた。玄白は答えた、前野良沢は完璧主義なため生前のうちに「解体新書」の完全な翻訳を試みたが、あまりにも時間がかかってしまうため、良沢自身から自分の名前は消して不完全のままでも良いから早く出版するようにと求められたと答えた。玄白は、あの完璧主義の良沢が言うならと思い、断腸の思いで彼の名前を消して「解体新書」を出版したのだと。それが国益になると信じて。
まだまだ「解体新書」には誤訳や玄白の想像によって書かれた箇所があるので、引き続き玄沢に一任して「解体新書」を修正して欲しいと引き継がれる。
玄沢や玄真、その他門弟たちは、玄白や死んだ良沢・中川淳庵の意志を引き継いで、日本の医学の発展に大きく貢献出来るよう努力すると誓う。ここで物語は終了。

青茶婆がなぜ玄白に取り憑いたのか、その真実に向かってストーリーが進むという展開も好きだったのだが、個人的には最後の年老いた玄白がどのように「解体新書」が翻訳されたのかを語り継ぎ、後継者たちに受け継がれていく様子に非常に心を動かされた。何と言っても玄白の「この世に治せない病なんてない」と言い切る台詞が凄く好きだった。これは今、巷を蔓延しているコロナに対しても同じことが言えて、医療の発達によってこそ新たな病に立ち向かって治療することが出来るのだと実感した。そういう点において、非常に医療をリスペクトした舞台作品とあって好きだった。考察パートでも深く書き記していこうと思う。

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【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/434349/1618010


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

舞台美術は、凄く心が落ち着くような澄み切った印象を感じた。まるで田舎のお寺に来ているかのような静かで休まる感じの荘厳な雰囲気に心地よさを感じられた。
舞台装置、照明、音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置、作りは全て木造で、舞台中央には正方形をしたステージのようなスペースが存在して玄白の屋敷の一室となっており、そこで基本的には全ての演技が行われる。舞台奥には下手から上手まで一面に木造の壁が一枚設置されており、壁の中央にはおそらく杉田玄白の一族の家紋と思われる文様が描かれている。その横に、上手側、下手側にそれぞれ一つずつデハケの通路が用意されている。
また、舞台中央にある屋敷の一室として使われる木造のステージの両サイドには何も仕込まれていないスペースが存在し、上手側のスペースでヴァイオリン奏者が生演奏が出来るようなセットがなされている。
本当に夏の暑い時期にはぴったりの見ているだけで涼しく感じさせるような、静寂で荘厳な作りの舞台装置に非常に落ち着いた感じにさせられ、とても心が休まった。これは生の舞台でこそ感じられる魅力だと思うし、そういった演出を手掛けることが出来る横内さんは素晴らしいと感じた。

次に照明、照明は大きく2種類あって天井から吊られている照明と、舞台中央のステージの周囲に設置されているロウソクたちである。
天井から吊られる照明は、今作においては奇抜な演出というのは全くなかったが、オレンジに照らして夕暮れを現したり、白に近い黄色で照らして午前中の時間帯を表すような明かりを当てたりと、時間帯を表す上で使われることが多い印象だった。
またロウソクに関しては、夜の場面において照明をほとんど落としてロウソクを煌々と灯すことによって、時代劇の雰囲気らしいものを上手く演出していた印象を感じた。ゆらゆらとロウソクの火が揺れながら、ぼんやりとキャストの顔を灯しながら演技が行われるあの感じはいかにも時代劇といった感じで非常に好きだった。これも生の舞台でしか伝わらない味だろう。
さらに、ロウソクの火を付けたり消したりするのも、黒子ではなくキャストが演技をしながら行っており、ロウソクの火をつけるという行為そのものが作中に取り込まれていて好きだった。

そして音響、音楽はもっぱらヴァイオリンによる生演奏で、スピーカーから流れるものは客入れ時のひぐらしの鳴き声と、開演直後のお寺で聞こえるような「ゴーン」という鐘の音。
まずは効果音から説明すると、ひぐらしもお寺でよく耳にするような鐘の音も非常に舞台装置の雰囲気とマッチしていて、その音を聞くだけで凄く気持ちが安らかになった。たしか序盤だけではなく、劇中でも登場した音だったので、凄く舞台空間全体に重みを与えてくれるような良いアクセントになっていて好きだった。
そして、メインのヴァイオリンの生演奏の方であるが、私が観劇した公演では吉村知子さんが奏者となっていた。ヴァイオリンと時代劇ってワードで聞いただけだと果たしてマッチするのか難しいと思ってしまうが、今作は非常に合っていた。いや、時代劇に対してヴァイオリンの音色がこんなに合うのだなんて思ってもいなかった。
ヴァイオリンの音色は、基本的には場転の間に演奏されることが多いのだが、どこかもの悲しげな音色に聞こえた。それは青茶婆がこの世に未練を残して死んでいったためなのかもしれないと想像した。その悲哀を含んだヴァイオリンの演奏が非常に心に響いた。
そこから終盤の場面で、玄白によって虎松が罪から開放されるシーンで、初めてパッヘルベルの「カノン」という明るいクラシック音楽がヴァイオリンで演奏されるのである。青茶婆の未練がまるでなくなって開放された感じもあって、非常に作品にマッチした仕上がりになっていて良かった。
カーテンコールでも、キャストの紹介があった後で最後に吉村さんの紹介があって、そこでも短い尺で生演奏を披露されていて、それに対して客席だけでなくキャストからも拍手が沸き起こって、凄く座組に対する温かさを感じられた一面を感じられたことも好きだった。

その他の演出でいうと、青茶婆の衣装が素晴らしかった。着物を脱いでその下にタイツを着てそこから長い腸のようなものを引っ張って出してくるシーンは息を呑んだ。非常にユニークな印象に残るシーンだった。
また、万兵衛役の岡森諦さんが講談師のように張扇を叩きながら青茶婆について語るシーンが面白かった。凄く見応えがあった。時代劇に上手くそういった日本の伝統芸能を織り交ぜられる演出って素晴らしい。
特に玄真が行っていたと思うが、長い巻物に筆で書物をしながら演技をするというのも大変興味深かった。あまり見られない光景なので、役者としてさぞかし稽古して訓練したのだと思いながら観劇していた。

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【写真引用元】
ステージナタリー
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【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

さすが劇団扉座というだけあってキャストさんたちの演技レベルは物凄く高かった。長年演劇に精通されたキャストが多いというのもあって、キャストさん全体から深みを感じた。
特に特筆したいキャストさんをピックアップして紹介しようと思う。

まずは、杉田玄白役を演じた有馬自由さん。設定が83歳ということだったが、いかにも超高齢の老人といった役作りがなされていたと思う。老人なのだが、声は凄く聞き取りやすくて迫力を感じた。
また体の使い方も超高齢の老人らしく見えたと思っている。ちょっとふらつきながらヨチヨチと脚を進める感じが、たしかに老人らしさを上手く表現していて違和感を全く感じさせなかった。
やはり印象に残るのはラストのシーン。日本の医学の発達のために「解体新書」の翻訳を後継者に託すシーンは本当に感動した。それは有馬さん演じる杉田玄白に深みある魅力を感じたからだと思う。

次に青茶婆を演じた中原三千代さん。この青茶婆の役はかなり役者として遊べる余地があるというか、どんなキャスティングをするかによって青茶婆のキャラクターは結構変わってくるんじゃないかと思っている。今作で青茶婆を演じられていた中原さんは、私が想定していた以上に滑稽な青茶婆だった、それでもこんなキャラ設定もありだなと思えるくらい、凄くハマっていたと思う。
結構客席からも青茶婆が登場すると笑いが聞こえたくらい滑稽に演じられていて、まるで今作の一番のコミカルシーンであったかのような印象、怖い印象を与えるのではなくコミカルな印象というのは意外だったけど凄く役者の味を感じられて良かった。

続いて、玄白の娘の蘭を演じた砂田桃子さん。砂田さんは、東京夜光の「いとしの儚」で一度だけ演技を拝見したことがある。ただ今作の方が出番も多くて非常に良い女優さんだと再認識した。
この蘭という役が個人的には非常に魅力的に感じていて、玄白の娘として女性であるにも関わらず門弟たちと並んで小さい頃から蘭学を勉強して、自分も女性版玄白になりたいと意気込んでいたというエピソードが物凄く記憶に残っている。
しかし、まだ江戸時代というと女性に学業なんて不要、家事をする立場だという世間一般的な認識が強くてなかなか蘭学者として活躍出来ない時代であった。そこに歯がゆさを感じていそうというか、思う存分に蘭学に打ち込める男性たちを羨んでいそうな姿がとても印象的だった。そんな気の強い女性だからこそ、シャキッとしない門弟たちに厳しかったりする辺りが非常に観ていて面白かった。

個人的に今作で一番魅力を感じたキャストは、穢多非人の虎松を演じた犬飼淳治さん。穢多非人という役柄なので服装はボロボロ、一体どうしたんだと思わせるような格好でそれだけでも目立つのだが、私が注目したいのは彼の演じ方。常に体をブルブル震わせながら、玄白の屋敷に入る事自体が恐れ多いといった感じの、いつも吃りながら下をずっと向き続ける演技が素晴らしかった。
そんな素晴らしい演技だからこそ、ラストで玄白から罪を許されて涙するシーンにとても心動かされた。決して虎松は悪い人間ではない、たまたま穢多非人という身分で生まれてしまったからこんな人生となってしまった。しかし、玄白に許されることによって生きているうちに救われたというか、それが虎松にとっては願ってもいない嬉しいことだったのだろうと非常に感じたので、凄く見応えがあって好きだった。

大槻玄沢を演じた山中崇史さんの貫禄のある演技も好きだった。特に、酔っぱらいながら蘭と話すシーンとか、話し方振る舞い方が上手かった印象。ただ、設定が65歳とあったがちょっとそのようには見えなくてもって若い印象を感じてしまった。
宇田川玄真を演じた新原武さんの演技は、東京夜光の「いとしの儚」に続き2回目の拝見。若く優秀でしっかりとしていそうだが、実は女たらしという一面があるという設定はとても興味を惹かれた。特に、劇中で演じているだけではその女たらしの一面は感じられない。強いてあげれば、蘭と二人きりになったシーンで仕切りに蘭に詫びる箇所では、その下心が垣間見られたがあの加減が凄く丁度良かった。

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【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/434349/1618009


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

個人的には、この作品から感じられたメッセージ性は2つあった。一つは「医療に対するリスペクト」ともう一つは「性別・身分を越えた平等意識」である。

まずは「医療に対するリスペクト」から見ていく。
昨今、新型コロナウイルス蔓延によりどうしても医療を取るか経済を取るかという二者択一を私たちは強いられていた。この経済の側面に演劇といったエンタメも含まれる。医療を優先する(コロナによる重症患者の増大による医療崩壊を防ぐ)ためにはエンタメは自粛しないといけないが、エンタメが自粛させられるとその業界で生計を立てる人々の仕事が奪われるという苦渋の二者択一である。
だからこそ医療と経済という境界線が引かれてしまい分断が起きているような印象を受けた。そんな苦しい状況だからこそ、今年に入ってから上演される作品は、そんなコロナによって振り回された演劇関係者たちにフォーカスした、ある意味演劇へのエゴが強い作品が多かった印象であった。勿論そこには、実際問題としてコロナによって苦しめられた演劇関係者たちのリアルな生き様や気持ちが込められていて、それはそれで物凄く見応えを感じた。しかし、これは見方を変えれば、より一層医療とエンタメの分断の溝を深めてしまうような印象も与えた。
一方で、今作は同じ舞台作品であるにも関わらずテーマが「医療」であることもあり、非常に「医療へのリスペクト」を感じられたのである。特に主人公杉田玄白の最後の言葉が大きい。「この世に治せない病なんてない」という言葉は、杉田玄白が医療という分野が社会にどれほど貢献するものなのか、そしてどれほどこれからの世の中に期待出来るものなのかを強く主張した台詞であると思っている。
私は理系出身というのもあって、やはり真実をしっかりと突き止めることって重要であると凄く思っていて、そのために「解体新書」の翻訳は欠かせないとする玄白の主張に物凄く共感が出来た。
そしてそういった内容の脚本をこのタイミングで上演されるということが個人的には凄く嬉しかった。エンタメ、医療は分断されるものではなくエンタメを通じて医療に対する認識や理解を深めることが出来る。本来演劇作品を上演する意味ってそんな所にあるものだと思っていたので、それをしっかりと具現化して上演して下さった扉座は本当に素晴らしいと思っている。

2つ目の「性別・身分を越えた平等意識」というメッセージ性は、先ほどの「医療へのリスペクト」とも関連すると思っている。
今作品では、時代設定がまだ江戸時代ということもあり日本でも深い差別や身分制度が残っていたことが感じられる。例えば、玄白の娘である蘭は女性であるという理由で立派な蘭学者にはなれない時代であった。また、穢多非人の虎松は決して彼は悪いことをしている訳ではないのに、獄中の罪人の世話をしなければならなかったり、死刑を執行せねばならなかった。
しかし、「解体新書」の翻訳と「腑分け」によって見えてきたことは、たしかに性別による体の作りに多少の違いはあるものの、どんな罪人でもどんな身分の者であっても、体の構造は全く一緒であるという事実であった。このメッセージから読み取れることは、身分制度や罪人というような区分はあくまで人間が勝手に線引した区分であるだけで、実際には皆同じ人間であり平等に扱わなければならないということだと思っている。
青茶婆も実際極悪な罪人ではあったものの、虎松による念仏によって改心して人間性を取り戻したような印象を感じられた。穢多非人の虎松だって常に念仏を唱え続けるような清らかな心を持っていた。
そしてそういった身分を越えた平等というものを促進させたものが「医療」だったと考えている。「医療」は人間を皆平等と捉えないと治療は出来ない、当時は身分制度の影響が強くてそのような主張は唱えづらかったが、絶対にその身分制度による認識の壁を突破しないと「医療」技術は進まない。
そんな主張を訴え続け、後世に大きく影響を及ぼした杉田玄白ら江戸時代後期の蘭学者たちの功績って物凄く大きかったことを実感した。
女性の医者が日本で認められるのは確か明治時代の荻野吟子からだったと思うので、蘭が志した夢というのはこの時代ではまだ達成することの出来ないものだったが、こうやって玄白の意志を継いだ蘭学者たちが日本の医療を大きく前進させたことは間違いなくて、私たちは彼らからバトンを渡されて暮らすことが出来ていると考えると非常にラストシーンは感動出来る作品だった。

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【写真引用元】
ステージナタリー
https://natalie.mu/stage/gallery/news/434349/1618008


↓横内謙介さん作・砂田桃子さん、新原武さん出演作品


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