手のなる方ってどっち?
呼ばれている感覚
人生で時々、流れを感じるときがある。
同じようなお誘いが続いて、どうもそちらに呼ばれている気がするときが。
自己紹介を書いた過去記事(リンク参照)で少し書いたが、私には幼いころからの夢があった。
運よく叶ったが挫折し、それでもなんだかんだ、形は変われど今でも夢の続きにいる。
さまざまなものに呼ばれるがまま、受け止めてきた結果だと思う。
が、もうそれは夢とは呼べない。
有難いからやらなくちゃいけないの?
" 有難いことに " 最近お誘いがとても増えている。
しかし、
"有難いことに"
そう言わねばならない、と思ってしまうことに苦しさを感じてしまう。
求められることや、機会をもらえることは有難いことだ。それは素直にそう思う。
しかし、有難いから、喜んで受けなければならないのか?
そう思うのには理由がある。
かつて制作系お仕事をしていたとき、パワハラ・モラハラの嵐で、かなり精神を病んだ。
それを話すと、家族や友人は私より憤慨し、別のところで仕事をしたらいいと言った。
しかし、当時の私はそんなことできなかった。
" 有難い状況にあるのに、それを捨てたら恩知らずだ。ここでやれなければ、何をやってもきっとうまくいかない。私がもっとうまくやれれば、こんなことにはならないはずなんだ。"
私自身が思ったことなので気持ちはわかるが、今思えばとても恐ろしい。
手のなる方へ
制作系の仕事なのだが、それを今やるには気力がいる。かなり頑張らなければならない。
なにより、夫であるギョロ目ちゃんとの時間を削らなくてはいけなくなるだろう。
求められることは単純に嬉しい。
使命感のようなものも感じている。
しかし、初めて手に入れた幸せな結婚生活のなかで、もうやめてもいいかなと思っていたのが本音。
求められていようが、待たれていようが、
その仕事の世界のなかで今よりいい功績が残せようが、
私にとって1番大切なものは、もうギョロ目ちゃんとの生活なのである。
それなのに、この期に及んで迷っている。
それは、心の底ではやりたいということなのか。
それとも、かつて囚われていたものの名残か。
今はまだ、わからない。
こんなときにお腹に子供が宿ってくれたら、
すべてのことがクリアになるのにな、なーんて
神様に耳打ちしてみるのである。