消えた豊臣秀吉を追いかけて Part 2 豊国大明神の来歴
●第一期 豊国大明神
一般に豊国(とよくに・ほうこく)を名乗る神社の祭神は豊国大明神でして、その正体は豊臣秀吉の御霊(みたま)です。このページでは、古川橋豊國神社の行方を追うにあたっての予備知識として、豊国大明神の来歴を書いていきます。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が逝去すると、秀吉の遺命(いめい)を預かる神道家・神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)が大坂城の北部・山里丸に第一期大坂豊國廟を造営し、豊国大明神を祀りました。次いで1599年(慶長4年)に京都東山の阿弥陀ヶ峰に秀吉の遺体が埋葬されると、真言宗の僧侶・木食応其(もくじきおうご)が阿弥陀ヶ峰の麓に第一期京都豊国廟を造営し、直後にそれを第一期京都豊国神社に改めました。
これらが豊国大明神の縁起です。死後の秀吉が神になったのですね。
秀吉の画した商都・大坂と、天皇の住まう首都・京都で、死後も天下人らしく威光を示す豊国大明神でありましたが、1615年(慶長20年)の豊臣家の滅亡に伴い徳川家によって神位を剥奪されてしまいました。第一期大坂豊國廟は大坂夏の陣の兵火を受け天守とともに焼失し、神の抜け殻となった第一期京都豊国神社は荒れるにまかせました。それぞれの神体は神龍院梵舜の手元に隠されたために消失を逃れたと伝わりますが、事実として徳川家の治める江戸時代に豊国大明神の復位が許されることはありませんでした。江戸時代は約260年も続きましたから、言い換えれば、約260年にわたりこの世から豊国大明神が消滅したのです。
●第二期 豊国大明神
ところが、幕末の大政奉還と王政復古を経て状況が一変しました。1868年5月下旬(慶應4年・明治元年閏4月上旬)に明治天皇が大阪を行幸し、次のように仰せられたのです。
「国家のために多大なる功績を残した
豊臣秀吉公を、
大阪の清らかな地に祀れ」
また、明治天皇が大阪裁判所に対し豊国大明神の社殿を造営せよとの御沙汰書を発布されました。これらを受け、1875年(明治8年)に別格官幣社(かんぺいしゃ)として京都府東山に第二期京都豊国神社が建ち、次いで1880年(明治13年)9月に第二期京都豊国神社の別社として大阪府中之島・山崎の鼻(当時の中之島東端)に第二期大阪豊國神社が建ちました。約260年の時を経て豊国大明神が蘇ったのですね。
●第三期 豊国大明神
復位から僅か32年の1912年(大正元年)に第二期大阪豊國神社の転機が訪れました。大阪市中央公会堂の建設に先立ち、第二期大阪豊國神社が大阪府立図書館の西隣へ約150メートルを遷座したのです。第三期を迎えた大阪豊國神社の境内は約1000坪の広さであったと伝わります。人口の増加も手伝ってか多くの市民が第三期大阪豊國神社を訪れ、特に北新地からの崇敬が篤く、摂社の白玉神社に詣るホステスが多かったといいます。次第に第三期大阪豊國神社の懐が暖かくなる中で、1918年(大正7年)に大久保利武ら大阪の財政界から「豊國神社を独立させてはどうか」との声が上がり、1921年(大正10年)に第三期大阪豊國神社が当時の金額にして3万円を第二期京都豊国神社に納め、府社豊國神社として正式に独立しました。
●第四期 豊国大明神
1961年(昭和36年)1月18日に第三期大阪豊國神社の転機が訪れました。境内の西隣に立つ大阪市庁舎の増築に先立ち、第三期大阪豊國神社が現社地である大阪城内へと遷座し、第四期を迎えたのです。大坂夏の陣から約346年を経て、ようやく豊国大明神が大阪城に戻ったのですね。
「Part 3 政治に翻弄される天下人の尊厳」に続きます。
https://note.com/yoyoyonozoo/n/nb952ff95d9a5
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