本記事の要旨 本記事では東京都中央区佃に鎮座する4か所の神仏を紹介します。何れも江戸時代から明治時代にかけての成立で、佃島の誕生から今日までを見守り続ける生証人といえます。佃島を深く知るうえで欠かせない存在ですので、取材と調査を通じて把握した内容を簡潔にまとめておこうと思いました。本記事がどなたかにとっての資料となれば嬉しく思います。 内容は2023年(令和5年)5月3日に現地で行った取材と、そこから約1か月にわたって集め調べた史料・資料が基となっています。お気付きの
本記事の要旨 まずは昔話から。江戸時代の始まるか始まらないかの頃に、大坂佃村の漁師と徳川家康が出会いました。漁師は平時に魚貝の献上を務め、有事の際に徳川家の密使として働き、信頼を重ねる中で江戸へと移住しました。やがて徳川家から隅田川の河口の先に浮かぶ砂州(さす)を拝領し、自らの手で砂州を島に築造し、佃煮発祥の地・佃島を完成させました。次いで故郷・大坂佃村の田蓑神社から分霊を勧請し(かんじょう)し、佃島の氏神として佃住吉神社を建てました。 本記事は大阪府大阪市西淀川区
●古川橋豊國神社の誕生 Part4は古川橋豊國神社の関係者に対し行った取材を基に進めます。 第三期大阪豊國神社が第二期京都豊国神社から独立する2年前の1919年(大正8年)11月8日に、関西電力株式会社の前身にあたる大阪送電株式会社が発足しました。同社は1921年(大正10年)2月25日に社名を大同電力株式会社に変更し、1922年(大正11年)7月に古川橋変電所を建設しました。関西電力株式会社によると、古川橋変電所の建設に伴い所内の安全と息災を祈念すべく敷地の隅に豊国
●太閤フィーバーは討幕派によって作られたか Part3は私・吉野の所感を元に進めますので、軽い気持ちで読んでください。 第二期以降の大阪豊國神社の来歴を知る中で素朴な疑問が生まれました。1880年(明治13年)9月に明治天皇の仰せを受け、第二期大阪豊國神社として豊国大明神の甦った場所が、どうして大阪城でないのだろうか。実は明確な理由があったのです。8年前の1872年(明治5年)4月に陸軍省が発足し、大阪城に大阪鎮臺本營(おおさかちんたいほんえい)を構えたのですね。当時
●第一期 豊国大明神 一般に豊国(とよくに・ほうこく)を名乗る神社の祭神は豊国大明神でして、その正体は豊臣秀吉の御霊(みたま)です。このページでは、古川橋豊國神社の行方を追うにあたっての予備知識として、豊国大明神の来歴を書いていきます。 1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が逝去すると、秀吉の遺命(いめい)を預かる神道家・神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)が大坂城の北部・山里丸に第一期大坂豊國廟を造営し、豊国大明神を祀りました。次いで1599年(慶長4年)に京都東山の
●本記事について 本記事は2021年(令和3年)6月2日〜9日にかけて取材・執筆を行ない、門真市立歴史資料館に提出した『古川橋変電所に存在した豊國神社の造営から廃社に至る経緯の調査と報告』を加筆・修正しつつ、noteに転載したものになります。 ●本記事で取り上げる豊國神社とは かつて関西電力送配電株式会社の古川橋変電所(大阪府門真市古川町12番地64号)に、豊臣秀吉を祀る豊國神社(ほうこくじんじゃ)が存在しました。どうして京都でも大阪でもない門真市に秀吉を祀るんだろ
中学3年生から高校1年生にかけて体験した少し不思議な出来事をしたためてみました。世の中に心霊現象が本当にあるか分かりませんし、私の勝手な思い込みかもしれませんが、記憶から消える前に感じたままを書き残しておきます。 * * * 1998年1月。中学校の卒業を控えた最後の冬休みでした。 町外れの集合住宅の自宅でだらだらと過ごしていると、祖母から電話が掛かってきました。電話の内容は、近日に祖父と祖母が北海道へ旅行に出掛けるから、その間に届く宅配便を受け取っておいてほし
●もう一つの八重垣大明神 八重垣大明神は神社ですから、誰かが何らかの意図を持って建てたのは確実です。そこで、Part6までとは視点を変え、八重垣大明神を他所から持ち込まれた神であると仮定し、その出自を調べてみました。 実は過去に八重垣大明神と名乗った有名な神社があるのです。縁結びの神社として崇敬を集める島根県松江市の八重垣神社です。 八重垣神社の社伝によると、その歴史はスサノオとクシナダヒメの御子・アオハタサクサヒコを祀る佐久佐神社に始まります。平安時代に社号を八
●偶然か 大阪市水道局の関わった工事、庁舎に現れた女性の幽霊、見付かった背骨。これらに因果があるのかどうか、私には分かりません。私はそう思いながら、X氏との連絡の途絶えた期間にまとめた資料を読み返し、あることに気付きました。 『津国女夫池』の著者・近松門左衛門は虚実を織り交ぜる作風の持ち主なのですね。つまり、『津国女夫池』が完全な創作でなく、事実を基にした半創作であるなら、造酒之進と清滝の遠いモデルとなった人物や、舞台となった場所が実在したかもしれないのです。ここで、
●幽霊騒動の真相とは ー 2018年(平成30年)4月 X氏からの電話の4日後に、私はZ神社を訪ねました。目的は大阪市水道局扇町庁舎で起こったとされる幽霊騒動とお祓いの裏取りです。 社務所の巫女さんに取材で訪れた旨を伝えると、奥から1人の男性が現れました。同社の禰宜を務めるZ氏(伏せます)です。 吉野「お忙しいところを恐れ入ります。 私は大阪市北区に在住の吉野と申します。 周辺の歴史を研究しておりまして、 そのうえで伺いたいことがあります」
●関係者に対する取材の開始 ここまでのレポートが、私の集めた八重垣大明神にまつわる資料の摘要となります。(摘要にしては長いですね。すみません。) 変わって、ここからのレポートが、八重垣大明神の関係者に対して私の行った取材の摘要となります。(また長いです。すみません。) お糸や八重垣姫の呪いを否定したとしても、八重垣大明神が依然として金網に閉ざされた怪しい神社であるという点に変わりありません。呪いの事実がないなら、金網を外し、鳥居を立て、誰もが自由に参拝すれば良い。何
●怪談の生まれた背景を推測 人形浄瑠璃の演目が八重垣大明神の怪談に変転したのであるなら、作品を怪談として語るに至った背景があるはずです。当時の世相と扇町(公園)の歴史に触れつつ、背景を簡単に推測してみます。 ●当時の世相 門左衛門の活躍した頃は男女の心中を描く作品が流行しまして、感化を受けた若者による心中が後を絶たなかったといいます。1723年(享保8年)に徳川幕府が心中を題材とした作品を禁じ、心中の生存者には極刑を処した程なのですね。また、門左衛門の作品に天満堀川
●八重垣大明神を知らない方へ 本記事で紹介する八重垣大明神とは、大阪市北区の扇町公園の南端に鎮座する正体不明の神社です。8畳程度の境内に、石碑、祠、それらを囲む玉垣が立つものの、常に鍵の掛かった金網に囲まれ、鳥居を持たず、自由な参拝が出来ません。 立地も気になります。阪神高速道路12号守口線の扇町出入口と扇町通に挟まれておりまして、とても窮屈なのです。 異様な外観のせいか、怪談の舞台にもなっておりまして、崇敬の対象とはは思えない神社なのですね。誰が何を目的に祀った
●本記事について 本記事は2017年(平成29年)12月に取材を始めた拙著『大阪+近郊 不思議と謎』(自主制作)の中から、大阪府大阪市北区扇町の「八重垣大明神」の記事を加筆・修正しつつ、noteに転載したものになります。 記事を何らかのメディアで引用される際は必ず連絡をください。関係者からの問い合わせに(実際に来ましたので)私が責任を取らねばなりません。関係者並びに私に対する誠意と、神仏に対する畏怖・畏敬の念をお持ちの方の要望に対しては前向きに応じます。しかし、無断で