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誰だっていつなんどき視座が変わるかわかりませんよ

誰だって傷つきたくない。

波風をたてて、危ない奴だと誤解されるリスクをとるよりも、損して得取れで、変に色を出さない方がいい。

自己主張がいつも強すぎる人はおめでたいと思って生きてきた。

そもそも自分には、自己主張をするほどの材料など持ち合わせておらず、適当におもねって、長い物には巻かれて、経済的弱者にならない事だけを志向して生活していた。

しかし、娘を轢き殺されてから視座が変わった。

おかしなものが、暗く静かに横たわり、放置され、へばりついている。
見せかけの同情や憐憫で誤魔化そうとする。
運が悪かったんだと。
これは個人レベルの話ではなく、仕組みの問題、社会の問題であると思う。

しかし、この視座を共有できる人は少ない。
社会の中で極めて少数派である。
だから、「まぁ分かるけどさぁ」と誤魔化され、かき消され、もうそろそろ良いんじゃね?と言う空気が漂い始める。

ある人からは、君がやっていることは自慰行為だと言われた。
そういう意見は当然あるだろうなと思っていたので受け流した。

時の経過と共に、もうそろそろ落ち着いたよねと、沈静化を求められている様に思う。

「ガタガタ言うでねえ、仕方なかったんだ、諦めて大人しくしとけ、それが嫌なら村さ出た方がいい。」

それが大方の本音では無いかと思う。

いずれ、(既にか)あいつは、娘を轢き殺されて自分は生き残ったクセに調子こきといった類の目も出始めるだろう。

お馴染みのエピソードの枠にはまろうとせず、自己主張を続ける輩はうざい存在になる。

傍観者の利己主義に翻弄される。

しかし、視座が変わってしまったのである。




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