4年経過後の心境など(被害者支援都民センター手記集 第24集 より)
2020年に娘と一緒に青信号の横断歩道を横断中、赤信号無視の車に突っ込まれ、娘は死亡し、私は重傷を負いました。
私が死亡し、娘は負傷で済めば良かった、そうした鈍痛がやむことはありません。
私は事件から1年後に会社員を辞めました。
何事も無かったかのように仕事用の仮面をまとうことができなくなり、組織から浮く一方の状況から逃げる様に退職しました。
多くの人が、何らかのストレスを抱えながらも、仕事用の仮面をまとって職場へ通われている中、私にはそれが出来なくなりました。
仕事用の仮面を立派にまとっている方達が沢山いる場所。
その象徴が私にとっては通勤電車の車内と駅構内でした。
電車内や駅構内で整然と行先へと向かう人々を目にすると、自分はこの列から外れたと言う疎外感に襲われました。
改札から地上出口へノロノロと歩く度に、負傷した足にまとわりつく痛みと痺れで、疎外感が体の隅々にまで行き渡っていることを体で感じました。
事件から4年以上の月日が過ぎました。
今もなるべく、電車には乗りたくないし、家の外にも出たくないです。
今後も疎外感が解消される見通しはありません。
私自身については、そういう現実なのだからどうしようもない、その様に諦観するほかないと思っております。
一方で、被害者支援、あるいは処罰や取り締まりについては、当事者の責任として何か働きかけが出来るのではないか?と考え続けてきた4年間でもありました。
その中で行きついた結論の一つが、「予算と人手が足りない、これは、きつい。」
ということでした。
でも、まだしばらくは、私のやれることを、やれる時まで、やろうと思っております。
娘の供養のため、娘の死を無駄にしないため。
そういうのとは、ちょっと違います。
うまくは言えませんが、やれることを、やれる時まで、やることが、今の自分の責任である、そうした思いが頭に張り付いています。
それは恐らく、娘を守れなかった責任をすり替える思考なのだと思います。
とすると、どの道、責任を果たすことは未達に終わるのは自明ですが。