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また少し大人になってしまった。

この7月から色んな動きがあり、忙しない日々であった様に思う。
来月以降もチョコチョコと予定はあるが、何か合意形成を伴うようなものではなく、ほぼ、自身単独の動きに戻るので、精神的な負担は軽くなった。

喪失、悲嘆、憤怒、絶望そうした思いが原点である事は、言わずもがなの共体験、共原点であろう。

しかし、自らが不合理だと思う事が、他の人にとっても不合理であると同意を得られる保証はない。
日常の限りある時間の中で、その不合理への対峙にどの程度の比重を傾けられるか?
その熱量と時間軸は、当然であるが千差万別である。

であれば、なおさら各々の思う「不合理」と「道理にかなう事」との間にある差異分析もマチマチになるのは当然であり、各々の擦り合わせなどと言うお題目の実情はパワーゲームである事をこの3ヵ月で学んだ。
つくづくこの国はサイレントマジョリティーが一番穏当であると、図らずも再確認した次第である。

また少し大人になってしまった。

しかし、そのパワーゲームも結局は局所的な枠を出る事は無く、大局的には誰もコントロールできない力により、その時代の空気に沿った落としどころに収斂されていくものだとも思う。

事の複雑性や個別性を深堀してこねくり回したところで、結局のところは、「収斂」という大きな鵺のような力に抗う事はできないだろう。
それが摂理かもと悟ってしまったのであれば、周囲に礼儀正しく、秩序に忠実であろうとしながら、自己満足(自己納得)を静かに志向していくしかないだろう。

私自身は己の満足も納得も一時的なものでしかなく、終わりが無い事を知っている。
だから、恐らくは辿り着くべき目的地は無いと知りながらも、燃料を焚き続ける事に執着し、やがて力尽きて死んでいくのだと思う。


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