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精神論なのかどうかは置いておいて

2021年の2月頃だったろうか、どうしても行かねばならない用事があり、銀座に行った。
コロナ真っ只中の銀座の人通りは、普段より少ないらしかったが、それでも多くの、一見するとノーマルな生活を送っていると思しき人が銀座然として往来していた。
その華やかさと全く異なる精神状態に、私は目まいがする思いだった。
中央通りを中に入っても人がうじゃうじゃいる。
地下に入っても人がうじゃうじゃいる。
皆、銀座然、ノーマル然としている様に見えた。
大袈裟ではなく、その場に座り込んでしまってもおかしくない精神状態だった。
そのくらい全てが滅茶苦茶になった事への絶望感に覆われていた。

あれから2年の月日が経ち。
今日、久しぶりに中央通りを歩いた。
銀座ではなく、日本橋である。

散々世話になった恩人。社会人としてのオヤジと慕った元Bossと飯を食った。
事件から3年経ったからかは分からないが、年明けに突然食事に誘われ、今日に至った。
特に核心に触れる様な話もせず、互いの近況報告などし、手伝える仕事があればよろしくお願いしますと頭を下げ、普段はしない握手などして別れた。

転職するため、Bossの事務所を退職した日、私は家に泣いて帰って来た。
電車の中で泣き、それでも飽き足りず、駅からの帰路でも泣き続けたのかもしれない。よく覚えてないが、妻に「は?」と呆れられたのは覚えている。

娘は私の泣き顔を何度か見ていると思う。
Bossの事務所を退職した日の泣き顔は覚えていないかもしれないが、もっと幼少期に、私が日本酒を痛飲して、実の父親と口論となり泣いて悔しがったのを見ていた。
恐らく2014年のでき事である。
娘と2人で帰省していた。
「パパ、日本酒飲んでおじいちゃんに泣かされた」と方々でエピソードを披露されて困った。
あれから、娘は私が日本酒を飲む事を警戒する様になった。

転職して、全く畑違いの組織の中で、入社直後にはアイツは採用ミスだったと言われる様な有様から這い上がる中でお世話になった上司が、異動で部署を離れる事になった。
その時もまた、私は家に泣いて帰った。

成長していた娘は、私が理不尽な目にあっているのではと心配してくれた。
そうではないと伝え、お世話になった上司との別れを説明した。
頑張っていれば必ず良い人と出会える、頑張っている者同士がどこかで必ず出会うんだ、その為にお前も頑張る事を少しずつ覚えるんだぞと、人によっては拒否反応で鳥肌が立つような、浪花節的オヤジの小言をかました記憶がある。(泣きながら)

素直なままだった娘は、頑張っていれば良い人と出会えると、そのまま心に刻んだ様だ。

先週末に頑張り続けた人達と震える様な時間を共にする事ができた。
しかし、各論はそれぞれ異なる事を知っている。
つい連帯や連携による共鳴の加速を求めたくなるが、事はそう簡単ではない事も何となく分かっている。(是非、協働して頂けないかと、直々に連絡をした交通遺族に豪快にシカトされた事もある。)

しかし、各論がそれぞれ異なるとしても、自分のテーマでどの様に本丸に近づけるか否かを発信し続ける事で、ある種の「型」は示せるのではないかと思う。
誰もどの様に取り組めば良いのか分からないのだから、ああ、アイツやってんだなと言う「型」も無いよりは良いだろう。

頑張っている者同士がどこかで必ず出会う等と言う小言が精神論なのかどうかは置いておいて、頑張り続けるとどうなるのかを考えながら、七転び八起きを繰り返すしかないだろう。




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