この人に会えて良かったと思うジレンマ
娘が命を奪われ、この世からいなくなってしまい、どうする事も出来なくて、ただ、これはおかしい、こんな事が野放しのままで良いはずがないと、訴える事しかできない生活になってから、助けてくれた人、出会った人が多くいる。
犯罪被害者遺族である子を失った親、この問題の深さを知るプロフェッショナルや政治家、この問題に関わっている訳ではないが自分のフィールドでベストを尽くす事により我々を支えようとしてくれる方々。
本当に凄い人だと、脱帽するしかない人も多くいる。
どうしたって足の速さや身体能力には個人差があり、異次元のアスリートが居るのと同じように、頭脳や処理能力が異次元の人がいる。
そうした人が、私がこだわっている危険運転の問題のキーマンであり、実際にその問題について語り合う時などは、「鮮やかな実践的ロジック」を目の当たりにし、この人に会えて良かった等と素直に思うものである。
この人に会えて良かった、そう思える出会いがいくつかあった。
そう思いたい、そんな出会いでもないとやり切れない。
そういう偏向が無意識にあったのかもしれない。
しかし一方では、事件以来、ただでさえ強い猜疑心の警戒レベルが異常値に振り切っており、騙されまいといつも目を凝らしていた。
でも実際は、そうしたレベルとはちょっと違う、出会えて良かったと心が少し解きほぐされる様な出会いが、確かにある。
娘が変わらず元気に中3を迎える生活をしていたならば、決して出会う事が無かった人達。
出会えて良かった等と、心をほどいている自分の吞気さが憎くなる思いもある。
もう自分は死ぬしかないと思い詰めていた頃を思えば、お前は随分と生きようと言う欲が出てきたもんじゃないかと、自分に嫌味の一つでも言ってやりたい気持ちになる。
本来であれば出会う必要が無かった出会えて良かった人達と出会い、その覚悟とエネルギーに触れ、自分が少し生きる事に前向きになる度に、それは娘への裏切りではないかと後ろめたさを感じる。
「それでも生きる」、とか、そういう事ではない。
それでも、時は変わらず進み、自分が動けば人とも出会うし、取り組まねばならない新たな課題に直面し、責任も生じる。
娘への裏切りではないかと後ろめたさを感じながらも、良い出会いに心をほどき、娘ならどう笑うか、どう怒るか、どう泣くか、そしてどう納得するかを考えては悩み、悩んでは動き、そしてまた考える。
「それでも生きる」、と言うよりは、そうしてふらふらと、迷っては動き、の暗中模索を生き恥のごとく繰り返して行くのだなと思う次第です。
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