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私の3.11

昨夜、諸々の用を済ませ、自室からリビングへ移動した。
時刻は午前1時前だった。
滅多につける事が無いTVを何気なくつけると、震災関連のNHKスペシャルの再放送が放送されていた。
そうか、今年も3月11日が来たかと独り言を言った。

番組の放送時間は午前0:25-午前1:14。
もう終盤に差し掛かっていた。

場面は4人の子と夫を持つ女性が震災で亡くなり、納棺師がご遺体をお子さん達と会えるように修復し、家族皆で対面を果たしたその後について描かれている所だった。

私はその女性の遺影が、明らかに死を想定していなく、スナップ写真から拡大したものである事を目にしたとき、そうだよなあ、と思った。
自分も家族も、まさか死など想定していない。
当然に遺影にする写真の用意などない。

この番組は過去にも見た事がある様に記憶していた。

東日本大震災に関する番組は数多く見た。
涙した事も少なくなく、同じ日本人として何か出来ないかと思い、そして、やがて日常に帰っていく輩であった。

しかし、昨晩番組を見た時、ああ、同じになっちゃったなあと思った。
突然の家族との死別。もうどうする事もできない。
せめてご遺体を穏やかにしてお子さん達に会わせたいと言う気持ちが我が事の様にわかった。

放送当時から10年を経ている。
このご家族はその後どの様に生き、今どうされているのか、そればかりが気になった。

2011.3.11 私は九段下の職場にいた。

情報が錯綜し、とにかく全ての交通機関が止まっていると言う情報だけは確からしかった。
事務所のBossが落ち着けとばかりに近所のコンビニでなんか買ってきてと、お使いを出したが、コンビニには既に商品が一切無くなっていたそうである。

妻に連絡したがなかなか連絡がつかなかった様に記憶している。
やっとの事で連絡が繋がり、娘が無事である事を確認し、まずは一安心した。娘は当時2歳であった。近所の職場から妻が余震のなか駆けつけると、娘は保育園の園庭でおんぶされて怯えていたそうである。

21時を過ぎたあたり、交通機関は当然に相変わらず麻痺している。
歩いて帰宅する人が増えているとの情報があったので、当初外に出ずに建物内に居た方が安全かとも考えたが、私も歩いて帰宅する事にした。

方角が同じ同僚と秋葉原まで歩き、昭和通りかどこかで別れた。
浅草橋を抜け、浅草を抜け、言問橋を渡った。
目の前にそびえるスカイツリーがどんな様子だったかは覚えていないが、変わらず、そびえたっていた。
多くの人が歩いて帰宅していた。
会社から支給されていると思われるヘルメットを着用している人も多数いた。

4~5時間はかかっただろうか、家につき、娘の無事を確認し大きく安堵したのを覚えている。

2011年3月11日は金曜日だった。
月曜日になったが、交通機関が機能している様子は無かったと思われる。
私は娘を保育園に送るママチャリで九段下の職場へ向かった。
確定申告期限は3月15日である。
とりあえず、やらねばならない。

徐々に被害の詳細が分かり、原発の事もあり、想像を超える事態に言葉を失った。

それから5年後、転職をし、出張が増えた。
一時は宮城県によく行く時期があった。
私は仕事の中で戸籍を見る機会が多い。
宮城の仕事では戸籍に自分より若い方が平成23年3月11日 午後2時〇〇分 死亡と記載がある物を多く見た。
ご家族全員にその記載がある戸籍もあった。
震災当時の話もポツリポツリとお客さんから聞いた。

まさか数年後、娘の除籍謄本を自ら取り寄せる事になるとは思わなかった。

被災し、死別し、その後12年の時を経た人々が、今どの様な思いでいるのか、かつてとは全く違う思いで報道を見聞きしている。

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