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皇室の未来について思うこと
日本の皇室は世界的にみてもかなり稀有な存在ではないだろうか。
私は専門家ではないし、皇室に詳しくもないけれど、ある程度の日本の歴史は教育を通して学んでいるから、そこから色々と推察くらいしてもいいと思う。
皇室の歴史は大河のように果てしなく、それだけでとても珍しい。
数多の豪族が政治権力を握ったとしても皇室は存続してきた。
もちろん、今とは違い皇室は常に政治権力を持っていた。
欧州における皇帝と教皇の関係性と少し似ているが、もちろん全く別物だ。
皇室にとって大きなターニングポイントとなったのは、間違いなく第二次世界大戦の敗北であろう。
ここで戦勝国によって、戦争責任を取らせるために皇室が解体されてもおかしくはなかった。
しかし、GHQは日本の統治に天皇は必要と判断し、『人間宣言』をさせて政治権力から遠ざけた。
この時点で、日本における天皇制度は実質終わっていたのではないだろうか。
形だけの天皇がエンペラーとして君臨し、国民を癒すという存在意義はまさしく『象徴』と呼ぶにふさわしい。
高度成長を終え、先進国の仲間入りを果たした日本、戦争を知らない世代が実質日本を動かしていく時代に、天皇は何を思っていただろうか。
戦後復興や独立のためのモチベーションとして天皇の存続は大きな力となったと思う。
明治維新のときは天皇を近代化のための一神教的なシンボル(象徴)として定義し、機能させた。
江戸時代は、幕府の将軍はあくまで征夷大将軍であったし朝廷の臣下であったはずだ。
戦国時代もそうだが、内乱時に必ず利用されるのが朝廷(皇室)の存在だった。
日本人は元々皇族に対し、敬う気持ちなどあったのだろうか。
キリスト教における神とは似て非なるもので、絶やしてはいけない、それこそ昔から『象徴』として機能していたのではないだろうか。
朝廷のゴシップなんて当然のごとくあったし、その辺りは通常の権力者と何も変わらない。
さて、しかし現代では権力はない。
完全な『象徴』として存在する。
何か違和感を覚える。
能動的な権力が伴う場合はゴシップありで了解できる。
それが無くなった存在というのは、果たしてありうるのだろうか。
そこで敗戦後のGHQの判断に戻る。
復興までは必要だというのが妥当だろう。
しかし、その後も存在し続ける理由があるだろうか。
理由というより、彼らの人権について必然的に考えるべき時がいつか来ると思うはずだ。
彼らは自由ではないし、日本国民が有する人権もない。
昭和はもちろん、平成の天皇も戦争責任を償うために慎ましやかに存在を行使したと自分には思える。
特に平成の天皇はそうだった。
令和の天皇と秋篠宮様は何を考えているだろうか。
天皇はその責務を全うする他ないが、秋篠宮家はやはり違う。
そして今回の来るべくして来た『醜聞』。
一部の国民が人権のない皇族に対し、こうあるべきだ論を声高に浴びせる。
日本の皇族は真面目過ぎたのかもしれない。
それはかの戦争に対する責任という”負い目”があったからだと思う。
戦勝国の判断でからくも存続した皇族は、この”負い目”をずっと背負うことを余儀なくされた。
皇族に向けて戦争責任を認めろ!ということであれば、それなりに筋は通っている。
しかし、今よくわかっていない人たちが皇族に求めていることは『人間をやめろ』、と言っているようなものではないだろうか。
彼らは『人間宣言』によって人間になった。
しかし、国籍もなく人権もない存在だ。
これが、これからも続けていいのだろうか。
今回の醜聞が、そういう議論を起こすきっかけとなればいいのだけど、全くそんなことはなく、勝手に自分の理想を押し付ける人々が正義の代弁者のように叫んでいる。
個人的には天皇制は令和の代で終わりにすべきと思っている。
突然に全てを、というのは無理がある。
緩やかに解体していくべきだと思う。
ある代までは国が保護をすべきだろう。
これに限らず憲法は改正する必要があると思うが、間違っても自民党が唱える戦前回帰的なものではなく、天皇なき日本の、未来に向けた憲法が必要になってくるのではないかと思う。
何となく、心の拠り所として存在していて欲しい、という曖昧な想いで天皇制を残すことには問題が大きすぎはしないだろうか。
日本国民はそろそろ天皇を『卒業』する必要があると思う。