なりたい自分になれる。かならず。
「なりたい自分」はありますか?
突然ですが…
「なりたい自分」や「ありたい姿」はありますか?
身近な方や歴史上の人物にロールモデルがいたり、
なんとなく「こういう暮らしがしたい」というイメージのような形だったり。
普段、だれに対しても自分の考えを強く推したりしないタイプのわたしですが、これだけは言えるかもしれません。
「なりたい自分」、「ありたい姿」は持っていたほうがいい!
なぜなら、毎日毎瞬の解像度が上がるから。
そして、自分の人生の舵を握った感覚をもって生きられるから。
その結果、すべて叶うことになるから。
いや、むしろ
生まれる前に自分自身が決めてきた「こうなる」「この景色を見る」という姿がすでにひとりひとりの中にあるものの、人間として社会を生きているうちに、気づかないうちに少しずつ少しずつ忘れてしまう。
願う、望むという行為はその姿を「思い出す」「取り戻す」ことなのではないか。
最近改めてそう感じることがベースになってきているので、今日は少し深掘りして綴ってみたいと思います。
「わたしじゃない時期」を知っているからこそわかること
冒頭で断言しておきながらですが、
かく言うわたしもつい最近まで「なりたい自分」を描けていませんでした。
正確には「見失っていた」「考えないようにしていた」の方がしっくりくる気がします。
振り返れば幼少期から自立心が強く、どんなことでも自分で決めて、大事な判断こそ親には事後報告というケースをいくつも覚えています。
自分の中にはいつだって向かうべき目標があり、それに向かって集中して努力して達成する。そしてまた次の階段を登る。ということをピュアにシンプルに繰り返し、文字通り「できない」「なれない」という概念は当時のわたしの辞書にはなかったように思います(強…)
そんな時期は自分の努力だけでなく、運やタイミング、人とのご縁などあらゆる面で本当に恵まれ、目に見えないサポートを受けることができていて、「わたしが望んだことは全部叶っちゃう」と自他ともに認めるほどでした。
そんな無敵状態だったわたしが、
社会人として大海原に出た頃に潮目が変わり始めました。
自由に願う力、実現する力は残っていたのに、外野から妬まれたりやっかみが聞こえてきたりが続き、かなり敏感なタイプなので、さすがに傷ついたり深く悩むことが多くなりました。
「目立つと嫌われる」、「わたしが願うことで誰かの人生を変えてしまうこともある」という考えがいつからかわたしの中にインプットされ、「これは願ってもいい願い?」「これはみんながハッピーになる願い?」と、しだいに心ではなく頭で判断するようになっていました。
さらに、結婚し家事育児がルーティンに加わり、前回・前々回の投稿の通り仕事でも学びでも多忙を極めるうちに、自分の願いを思い描くことを忘れ、いったい誰の人生を生きているのかますますわからなくなっていたのです。
そんなときに、強制終了としてやってきた娘の入院・手術を機にやっと立ち止まり、約10ヶ月間休職しましたが、しばらくはどんなに頑張ってもわたしは本当は何がしたいのか、どう生きたいのかが本当にわからなかったのを今でも鮮明に覚えています。
それどころか今日何を食べたいか、週末どこにいきたいかさえもわからない。「なんでもいいよ、決めて」しか出てこないような状態でした。
そんな時に受け取ったのが「適応障害」という診断名でした。
先生曰く、適応障害には状況や環境に「適応できないタイプ」と「適応しすぎてしまうタイプ」があり、わたしは後者のほうで、周囲の空気を読み、求められることや期待に無意識に応え続けることで自分自身の限界を超えてしまった結果という説明でした。
その話を聞いたとき、今まで私にどれだけ無理をさせていたかを実感し、「ほんとうにごめん」と同時に「やっとわたしを助けられる」という言葉が頭に浮かび、クリニックの待合室で涙が止まらなくなったのでした。
わたしの例は極端なケースとして、みんなに当てはまることではない(ことを心から願う)ですし、こうなっちゃうよと脅すつもりもまーっっっったくありませんが、「わたしじゃない時期」を存分に味わったからこそ、冒頭のように切れ味よく断言できるのだと思うのです。
覚悟を決めるのは、自分
2024/10/5から12/21の間、エディターの昼田祥子さんの「100人の人生を動かすプロジェクト」に参加しています。
期間の前半は主に「物理的な手放し」にフォーカスし、身のまわりのものと向き合いどんどん手放して身軽になることをやってきました。
そしていよいよ後半、「精神的な手放し」のフェーズに入り、人の評価を気にする自分や、完璧主義な自分などをだいぶ手放すことができるようになり、「できない」「こわい」とずっとブロックしていた発信を少しずつスタートし始めたこのごろ、先日の昼田さんのこんな言葉が心にぶっ刺さりました。
「いつだって、過去の自分に向けてやっている」
昼田さんは、メルカリ出品も、連載記事の執筆も、この「100プロ」さえも、ターゲットはいつでも「あの頃の自分」だというのです。
すべての発信は、今のわたしと対極にいる「わたしじゃない時期のわたし」に向けてメッセージを送っていると。
それを聴き、映画「インターステラー」で主人公がパラレルワールドの時空間を超えて過去の自分に必死にメッセージを送るシーンがパッと思い浮かびました。
これにわたしはしびれてしまい、この瞬間からわたしもすべてそうしようと決めたのです。
「あの頃のわたしを救いに行く」「あの頃のわたしに届くように願い、書く」
誰にも素直に辛さや悲しさを打ち明けられなかったわたし。
会社員として組織に属することでしか安心・安定を得られないと思い込んでいたわたし。
しんどい努力があってこそ成長できると心身を犠牲にしていたわたし。
親や上司、周りの人にたくさん褒めてほしかったわたし。
誰も真にわたしを理解してはくれないと、心に壁をしっかり作っていたわたし。
それでも本当は誰かに思い切り甘えたくて、「そのままで大丈夫だよ」と言ってほしかったわたし。
あの頃のわたしに宛てて伝えることで、同じようにほかの誰かにも届けられるかもしれないという気持ちで、当時を振り返り思い出そうとしていた時、ふと開いたノートに大切なことがすべて残っていました。まるで、今日のわたしがこの情報を必要になることをあの頃のわたしがちゃんと知っていたように。
You are the Master of YOUR LIFE
ノートにはこのあとも、あの頃のわたしが自分自身と向き合い対話している様子が綴られていました。
今まで何年も一日のほとんどの時間を「わたしじゃないこと」に費やしてきたことに気づき、悩み切った末に勇気を振り絞って当時のわたしの時計の針を止めた頃のこと。
深海に差し込むわずかな光をたよりに、少しずつ少しずつ明るい水面へと浮上していくようす。
「稼いでいないのに自分のしたいことにお金を使うなんて悪だ」という思いに気づき、長年握りしめていた「人に頼ってはいけない、迷惑をかけてはいけない」という思い込みを手放し、夫に養ってもらう生活を受け容れ始めたときのこと。
ココロとカラダのつながりに気づき始め、トレーニングや様々なエネルギーワークの力を借りて心身両面からのアプローチを地道に続けてきたこと。
先が見えず苦しかった時でも自分の中に備わるアンテナを信頼して行動し、今のわたしをつくるとても大切なご縁をたぐり寄せていたこと。
長いトンネルの中を一歩ずつ進みながら自分への信頼を思い出し、「わたしはわたしの人生を生きる」という感覚を確実に取り戻してきたこと。
意識が常に外を向いていた渦中には気づかなかったけれど、一歩引いて俯瞰してみると、辛かったこと、悲しかったこと、必死に努力していたこともすべて自分が望んだ結果だったということに気がつきました。
「こうなっちゃったらどうしよう」「嫌われたくない」「努力しないと認めてもらえない」「わたしは人よりできない」「○○さんはわたしよりあの人の方が好きなんだ」・・・
わたしの頭の中を埋め尽くしていたこういう思い込みが、そのまま現実に映し出されていたのです(宇宙法則の一つ、「投影の法則」)。
「そうか、いつからかわたしは願い方、世界の見方を間違えてしまっていたんだ」
そう気づけたとき、やっとこの物質世界のメカニズムを少し理解できたような気がします。
幸せになる覚悟を決める
この世界は、自分の内側が外側に映し出される仕組みになっていると実感を持って気づいてから、「わたしが見たいのはこの世界か?」とことあるごとに自分に問うようになりました。
自分の内側が不安に支配されていたり、「どうせわたしなんて」と自分の殻に閉じこもっていたり、新しい変化を恐れていたりするとき、「おうおう、ちょっと待とうか。これが映し出されてもいいんだっけ?」と確認作業を挟み、その都度内側の軌道修正をするようになったというか。
そうするうちに、「願いが叶ってしまうことを恐れている自分」がいたことにも気がつきました。
大きなことを願うほど、今との変化を想像し足がすくむ。
今あるものを壊さなくてはならなくなる。
今まわりにいる人たちが離れていく。
あっちにもこっちにもしわ寄せが行く。
そうかも。
たとえそうだとしても。
わたしはどう生きたい?
この世界は「決めたもん勝ち」だとしたら?
「願ったことぜんぶ当たり前に叶う世界」だったとしても、その程度でいいの?本当に満足してるの?
そう問いかけたとき、わたしからの答えは「まだまだこんなもんじゃない」「まだ見たことのない景色を観に行きたい」でした。
なりたい自分になる方程式(わたし調べ)
経営大学院時代、何百件というケースを題材に世界中の企業の経営者になりきって課題解決を学んでいたころ。
どのケースにおいても共通する原理原則があり、物事を抽象化・俯瞰して受け取る癖のあるわたしはその原理原則を通して毎回こう感じていました。
「会社も個人の人生も、考え方一緒やん」と。
なりたい自分と今の自分のギャップを埋めていく
すべてのケースで通る手順が、この一言でした。
そう。大切なことはいつだってシンプルです。
外部環境分析、内部環境分析を経て自社の現在地を知り、未来の「ありたい姿」との差分を明確化し、経営戦略に落とし込む。
全社的な方向性を各部門に振り分け、スケジュールを組み粛々と遂行していく。そしてその経過をウォッチしながら必要に応じて大胆かつ繊細に軌道修正を図る。
会社となると、動かす規模感も関係者の数も多くより複雑にはなりますが、自分の人生は自分が社長です。よりシンプルに経営判断を下すことができます。
今の自分はどんな状態か。そして将来はどうなりたいか。
そこへたどり着くつくために、
・どんな人・場所・環境とのご縁を選ぶか(ヒト)
・どんなスキルセット・マインドセットがほしいか(モノ)
・どれくらい収入がほしいか/どれくらい支出がありそうか(カネ)
・どんな想いを大切にして、何を指針にして生きるか(志・理念)
を自分の中で整理して、今の自分との距離を埋めていく。
文字にすると小難しく見えてしまいますが、社長は自分。どんなテンションで、どんなスピード感で進めるかはすべて自分で決めていいのです。
疲れたら休めばいいし、ノッている日はガンガンいけばいい。
こんな風に、日々を「経営者マインド」で過ごすことができたらどうでしょう?
毎日毎瞬の解像度が上がる気がしませんか?
自分の人生のハンドルをしっかり握っている感覚になりませんか?
そしてこの流れで最も大事な部分、それは
「なりたい自分」をどれだけ明確にできるかです。
フォアキャスティングとバックキャスティング
そもそもどこに照準を絞るのか。すべての始まりである「なりたい自分」を定めるにはポイントがあると思っています。
わたしとしては、「フォアキャスティング」と「バックキャスティング」という2つのアプローチが大切だと考えています。
これも企業のビジョンや経営戦略策定の手法の一つとしても取り入れられていますが、在学中、学事イベントの企画委員をしたときに個人の人生戦略を考える企画で実際に使い、とても反響のあった考え方でもあります。
「フォアキャスティング」:過去やってきたこと、今の自分の延長線上に見える自分
「バックキャスティング」:これまでの経験、今の条件、制限、一切なくしたときのなりたい自分
フォアキャスティングは、これまでの自分を振り返り、これからも大切にしたい価値観や逆にもう手放したい価値観を掘り出す作業に不可欠。また、描いた「なりたい自分」に向かう日々の過ごし方を短期・中期的に定着させるときにも有効です。
バックキャスティングは、人生をよりドラマチックに劇的に進化させるために欠かせない思考法。過去の学歴や職歴、現在の収入も、立場も、家族も環境もいっさい横に置き、「全部叶うとしたら」を前提に未来を描きます。
中期・長期的に人生を見据え、「いつか必ずそこにたどりつくし」という灯台のようなイメージ。
この両方、どちらも必要なのです。
とくに、わたしの数秘セッションや発信するものに出会ってくださっているみなさんには「人生の転機・変革期」を迎えておられる方が多いように感じます。
そんな大事なタイミングにぜひ取り入れてほしいのが「バックキャスティングでこれからの『なりたい自分』を定める」というプロセスです。
そのための時間や場所をあらたまって確保しなくてもいい。
通勤の合間でも、湯船につかりながらでも、ちょっとお茶をしている時間でもいい。ココロとカラダがちょっと緩んでいるタイミングがポイントです。
頭の中は、誰にも見られない自分だけの自由な空間です。
「なりたい自分」を描くとき、昼田祥子さん流には「バカになったもの勝ち」だそうですw!
(だいぶ恥ずかしいですが)たとえば、わたしの場合・・・
バックキャスティングの一例は「大好きな大橋トリオの専属セラピスト」になること!ですw 正確には「一緒にお仕事をすること」かな。
もちろん何のコネもないけれど。どこでどうなってそれが叶うか、今はまったく想像もできないけれど。ただ、もう決めてるから、いつか必ずたどりつくという確信を持っています。
大事なのは、そういう感覚でいること、です。
あとは、いつオファーが来てもすぐ動けるように自分を整えておくこと、日々いつでもReady状態でいることだと思っています。
こういう「なりたい自分」が何十個もあります。
冒頭にも書いた通り、「なりたい自分」「ありたい姿」はすでに自分の中にある。今は、薄れたり忘れてしまっているけれど、頭にイメージとして浮かんだり、見たり聞いたりしてワクワクする、心が動くということは、自覚があってもなくても「もう自分の中にある」ということ。つまり、「今回の人生、それをやりにきた」「その景色を見に来た」ということです。
あとは、ココロもカラダもゆるゆるにして、バカになって、自由に、素直に、ぶっとんだ「○○したい!」を出す(思い出す)!
現在地といくらかけ離れていてもいいのです。自分の頭の中ですから、いくら自由に考えたって誰にも迷惑かけません。いくつでも、出てくる分だけ出してあげてください。
「いや、やっぱり無理でしょ…」「できないかも…」がよぎったら、その日はそこでSTOPです。
どんな「なりたい姿」を思い浮かべたか、どんな思考がSTOPをかけたか、ぜひどこかにメモをして。そのメモがいつか必ず、思い込みの枠に気づきそこから抜け出すヒントになってくれます。かつてのわたしのノートのように。
実現のルートも2種類
いったん「なりたい自分」を描けたら、実現に向けた考え方も2つ合わせて大切だと思っています。
フォアキャスティングの場合、目に見える形でスケジュールやタスクに落とし込み、日々(マイペースで)粛々とやっていく。楽しみながらルーティン化するイメージです。
でも、それだけじゃ人生つまらない。願いを思い出し、実現するこのプロセスこそ、もっと面白がっていい。その道のりこそ生きる喜びといってもいいと思っています。
そこで、同時並行してバックキャスティングのルートもぜひ取り入れてほしいです。
バックキャスティングの場合、スケジュールもタスクも考えない。だって今の自分からは予想もできない「なりたい自分」を描いたら、どこで何がどうなるかも想像できなくて自然です。わたしの例を見てくださいw
ただ、「ヴィジョンボード」をつくって「瞑想」をして、目の前にある毎日の生活を送り、その日が来るのをワクワクしながら待っていてください。願い、望みを思い出し、カーナビに目的地を設定したら、あとは流れに乗って運転をするだけ。自動的に目的地へ連れて行ってくれるのです。
自分に備わっているアンテナを信頼し、いつでも「わたしが願ったことは全部叶っちゃう」マインドで。
「自分じゃない」ことは決して入れない
シンプルだけれど、しっかり意識していないとついつい曖昧になってしまうのが思考や心の境界線です。
とくにこの情報社会では、メディアやSNSにはあらゆる情報が溢れ、目の前に流れてくる楽しく魅力的な波に身を任せていると、「自分」という存在がいとも簡単に沖合に流されてしまうこともあります。
人と会ったり新しい情報に触れて、「世界は広い」と実感することはとっても大事。でも同時に自分の船をしっかりと港につなぐ時間があってこそ、安心して遠くまで旅に出られるように感じます。
身近な人とのやり取りでも、健全な境界線を大切に。どんなに心を開いている相手であっても、「自分の内側の神聖な場所」をなにより大切に守ってください。
少しでも、自分のココロとカラダが「心地悪い」「違う」「帰りたい」と拒否反応を示していたら、できるだけはやく「心地良い」「大丈夫」「ずっといられる」と感じられる場所へ連れて行ってあげてください。
「なりたい自分」への道のりでも、「忍耐」「必死な努力」「我慢」「自己犠牲」「無理をする」は本来のルートを外れているサインです。
日々集めてほしいのは、「直感で」「なんとなく」「気がついたら」「自然と」「楽しい」「好き」「しっくりくる」という感覚です。
小さかったり気づきづらかったりするかもしれませんが、これらはたしかな「GO! GO!サイン」です。このようなフラグを大切に集めながら日々の生活を送ることができたら、とっても豊かだと思いませんか?
わたしが長年背負っていたのは「他人の目」「外側の評価」でした。
「自分じゃない存在」がどうしても邪魔をして、日々の生活でもレンズが曇ったり、「なりたい自分」を思い描くにもスムーズに言葉やイメージにならなかったのです。
これも「100人の人生を動かすプロジェクト」で実体験として学び、痛感していることですが、もし他人の目を気にしてしまう場合、願いがスムーズに言葉にならない場合は、まず服捨て、モノ捨てからスタートすることを大声でおすすめいたします!
なぜなら、他人の目を気にしている今、身のまわりにあるもの(特に服・バッグ・靴など外へ出るときに身につけるもの)は「他人の目」によく映るために持っているものであることがほとんどだからです。
購入するのはもちろん自分です。でもその時の自分の内側には、「これを持っている自分・これを着ている自分は他人の目によく映るはず」と無意識下で感じているのです。
他人の目以外にも、「これがないと困る」や「予備を持っておきたい」「最新版がほしい」という想いで持っているものたちの背景には、「わたしは欠けている」「ありのままでは不完全だ」という無意識下の自己認識があるのです。
ならば、手放したい古い価値観や思い込みに気づいたら、その想いで手に入れたものを手放せばいい!
これを繰り返して、がちがちの鎧で武装した過去のわたしを少しずつ身軽にしてあげることができました。
このシンプルな方法と、本質的な自分との向き合い方を教えてくれたのが昼田さんであり、「1000枚の服を捨てたら、人生がすごい勢いで動き出した話」という本です。
「怖い」を超えていく
「なりたい自分」へのルートを自動運転モードで進むにつれて、自分のココロの奥の方から、むくむくと湧き上がってくる感覚があると思います。
「発信したい」
「わたしの内側を表現したい」
繊細で敏感なアンテナを持ち、人一倍感受性が強く、良くも悪くも場や人から多くを受け取ってしまう自分の特性を、ずっと内側のメモリに保存しておくのが苦しかった。
季節の移ろいや太陽・風の変化、植物の匂い、人の弱さや優しさ、日々の美しさに感動するセンサーをせっかく持っているのに、自分の中だけに留めておくのが惜しかった。
これまで歩んできた人生で味わった喜怒哀楽、経験したこと、学び気づいたことをシェアすることで、同じように迷い悩んでいる誰かの小さなヒントになれるかもしれない。
日々変化し続ける自分の感覚・感性、毎日ふと感じてはすぐに消えてしまう大切なインスピレーション、思いついた瞬間に指の間からこぼれてしまうワクワクのアイデアを、大切にどこかに残しておきたい。
わたしの場合は、こんな想いが長年胸にありました。
でも、怖い。
自分の内側だったら自由に感じ表現できたことでも、いざ外へ出すとなると否定や反対を向けられるのではないか。わたしの発信を受け取って、不快になる人もいるのではないか。目立ってしまうことで、またあの頃のように妬まれるのではないか。逆に、誰にも必要とされず、見向きもしてくれないのではないか。
Instagramアカウントを分けて鍵アカで投稿してみたり、わかる人にはわかるような抽象的な表現にしてみたり、当たり障りのない内容にしてみたり。
「発信したい」けど「傷つきたくない」の狭間をあの手この手でさまよった結果、どれも自分のココロが満たされなかったのです。
「自分じゃないこと」をやっていたので、それが自然な反応ですよねw
このnoteや、stand.fm(こっそりやっている)をはじめること、自分の内側を外へ出すこと全般は現在進行形で怖いですし、想いを形にするのはめちゃくちゃ体力を使います。生みの苦しみを何日も味わっています。
それでも、いったん外へ出してみるととっても軽くなれるのです。そして毎回、本当にありがたいことにたくさんのメッセージをいただくことができ、その時に何よりも「勇気を出してよかった」と実感しています。
「怖い」「しんどい」は変わらない。
でも、その先の景色を観に行きたい。
「怖い」を認める。そう感じている自分を肯定してあげる。
見たくない感情を暗い闇に追いやらず、あたたかい光を当ててあげる。自分の中の光も闇も、同じように大切に扱う。
そうして、一歩踏み出して超えていく。
その繰り返しをこれからも続けていくのだと思います。
わたしにとって、次の階段は顔出しに慣れることです。
自分の外見や表情、話し方もずっと好きになれず、写真を撮られるのもコンプレックスを感じてしまうわたしですが、少しずつその「怖い」も超えていきたいと思っています。
「一人1ブランド」の世界
うすうす感じておられる方も多いと思いますが、2025年以降、世界がまた大きく変わる予感がしています。社会的・経済的など外側の変化もそうですが、それよりも先に私たちの内側が変わるから必然的に外側も変わってくるのが自然の理かと思います。
2025年以降、わたしたちはますます自分自身の世界を生きたくてたまらなくなります。形やスタイルは十人十色ですが、そうなっていくと思います。
誰かの世界を生きていた時代はいよいよ終わり、わたしたち一人ひとりの生き様がブランドになり、自分の人生に誇りをもって自分自身をブランディングして外へ向けて出していく世界になります。
身を置く場所は変わらずとも、そこに生きるわたしたちの心持ちは「わたしはわたしを生きている」へと自然と進化していくのだと思います。そんな内側を持つ人たちが一人、また一人と増えると、世の中も進化するのが自然の流れです。
それが「一燈照隅・万燈照国」になるのだと確信しています。
わたしたちは、自由に変化していいのです。星々も、風も雲も、季節も天気も、木々も花々も、常に変化しています。
変化こそ、自然の姿です。
自分の内外の「不自然」をなくし、「自然」に戻すこと、そしてその先に待つ見たことのない景色を、ぜひ一緒に見届けにいきませんか💛
編集後記
自分でもびっくりする文字数になりました(10,000文字超えw)。
読みづらいよな、重いよな、堅苦しいよな、と色々心配しながらも、このタイミングでどうしても残しておく必要があるように感じ、書き続けてしまいました。
今回の記事を書いていて、もう立ち戻ることはないと思っていた過去のわたしに再び触れ、苦しくても丁寧に紐解いてきたことで、新たなインスピレーションが生まれました。
経営学の学びを、一人ひとりの人生戦略、生き方のデザインに活かして中長期で伴走・サポートができたら…
自分の人生のシナリオを思い出し、主人公を生きていく人を一人でも増やせたら…
なにがどうなるか、わたしにもわかりませんが、マイペースで形にしていきたいと思います。