イタリアにアモーレが溢れているとしたら日本に溢れているのはムッツリーニである。 〜街での「挨拶」の延長にある海外のナンパと、街にコミュニケーションが存在しない日本 |俗なサピエンスの生態観察日記 #24
こんなツイートを見た。
@058kme
イタリア旅行で出会った人たち実録(アモーレ溢れすぎ案件)
イタリアの人々代打:くるん兄弟
(https://twitter.com/okomeeeen/status/916951451959664640 より )
■日本には街に会話が存在しない
日本で暮らしているふつうの日本人がこれを読んで感じる、微妙なドラマチック感の正体は、「街に会話が存在する」ことでは無いだろうか?
そう、海外には「Hi文化」が存在するのだ。知り合いではない、街ではじめて出会った人同士が、会話を交わす。
小説やドラマの世界では、日本においてもたくさん描かれているシーンである。
(というか、そういう「コミュニティ外との接触」が無いと、全てのストーリーは主人公の所属コミュニティの中で完結する非常にミニマムなものになってしまう)
しかし、実際日本で生活していて、街で他人とコミュニケーションを交わすことがどれくらいあるだろう?
もちろん、店員への注文など"業務連絡"(これを俺がこう呼ぶのは愛すべき非モテたちが一生において女と交わす会話は"業務連絡"のみ、という話からの引用だ)は除いた上でだ。
恐らく、ほぼ無い。たとえば一人でショッピングに出かけるとして、家を出てから帰りにつくまで、"業務連絡"以外で日本人がコトバを発する回数はゼロだ。
もしかしたら、何気に凄いディストピアがこの国で実現しているのかもしれない。会話は所属コミュニティの中でのみ交わされるもので、街に出ると皆、まるで吃音症にでもなってしまったかのように「アッ、アッ」しか言えなくなる。
「今日はいい天気ですね」というよく耳にするフレーズも、他人同士が街で会話をする際のはじめのひとフレーズとして海外では十分に機能するもので、外国映画やドラマ、あるいは村上春樹の小説などにも頻繁に登場するが、
実際、日本の地で他人に対してこんなフレーズをぶっ放せば、途端に相手は怪訝な顔になり、不審者を見るかのような目つきで睨み返してくることだろう。
現代ニッポンの街角から、コミュニケーションは完全に消滅してしまったのだ。
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