教育は全て「善きもの」となるから危うい【教育という病】
こんにちは、1週間の折り返しの水曜日ですね。頑張りましょう。
さて、今日は「教育という病」(内田良)を読んで思ったことを書きます。
最近は学校現場のズレを認識している方も多いと思いますが、「教育」=「善きもの」という認識は長い間培われてきたものであって、今でも学校教育の根底に漂っている観念だと思います。
例えば、生徒指導をする時によく聞くのは、「基準は君たち(子ども)でも、保護者でもなく、学校を管理する我々だ」という言葉を聞きます。つまり、基準を決めるのは双方が納得する、しないは関係なくて、教員側にあるという認識です。まさに正義は「教育」を行なっているこちら側にあるんだということです。
内田さんが、危険視しているのはそんな「善い」「素晴らしい」と思っている裏にはリスクもつきもののはずだが、それが無視されているということです。それらは教育リスクと呼ばれます。柔道や組体操の怪我や死亡事故、2分の1成人式の配慮のなさなどの子ども側のリスク。そして、強制的に、責任を負わされる部活動の教員側のリスク。そんな、多くのリスクが、学校現場には多く埋れています。
内田さんは、教育リスクには5つの特徴があるといいます。①リスクが直視されない。②リスクを乗り越えることが美談化される。③事故の発生が正当化される。④子どもだけでなく教員もリスクにさらされる。⑤学校だけでなく市民もまたリスクを軽視している。
特に、①に関しては細分化され、リスクを知らない、リスクを楽観視する、リスクを当然視するの段階があります。たしかにコロナの対応を見ているとわかりますよね。例えば、野球ならば夏の甲子園大会がなくなったのに、なんで地方大会が開催されるのか。実はリスクを楽観視していますよね。だって、当該部活動で、一人でも陽性者が出たら、その部は出場辞退になるんですよ。そもそも、クラスター起こって、その子自身も含め、その子の家族の誰かが亡くなったとしたら、誰が責任を取るのということもあります。それに、もし誰かなった時に出場できなかったら、攻められるのはその子ですよね。そこまで考えているのかな。