担々麺の汁vs温厚な僕。
なんの特徴もない僕がただ一つウリにできること、それが「温厚」だ。
会社でも怒ったことがないことで有名。「〇〇さんって怒らないし大人な対応ですよね」といってくれる。本当は会社というものに1ミリも興味がないから会社で起きるあれこれが単純に「どうでもいい」だけなのだが。
そんな僕が今日イライラしたので思わず筆をとった次第。
舞台は「幸楽苑」。最初にいっておくと幸楽苑には何の罪もない。なんだったら御礼を言いたいくらい。今日も担々麺を美味しく頂きました。ごちそうさまです。
僕は黒のセーターという服装で出かけた。わかる人にはわかると思うが、これは完全にプロアクティブ的な対応であり最初からラーメンを食べることを想定しているのだ。そう。つまりラーメンを食べるときに飛んでくる汁に対する第五種警戒態勢を敷いたな、というのは多くの人が感づいた通りである。
カウンターに座り、温かな午後2時過ぎの光に照らされながら日記を書く僕。幸楽苑は休日なだけあって昼下がりでも混んでいた。昼下がりのファミレスには人を包み込む優しさで溢れている。
ガラス張りの窓からの温かな陽光に照らされながら担々麺が席に届く。担々麺の位置と餃子の位置を慎重にセットする。その配置は龍安寺の石庭に通ずるものがあって禅の考え方にもとづいている。箸を手にとり、おもむろに担々麺の麺を取り出そうとしたところて事件は起きた。汁がめちゃくちゃ飛んできたのである。
「チッ」
思わず舌打ちする普段は温厚な僕。
さらに多量の汁が飛び散る。
「アッ?フザケンナヨ?」
ろくでなしBLUES並のメンチを麺に切る(ややこしい)、温厚な僕。
しかしそこで僕は冷静に考えてみた。(さすが温厚な僕)
「これはいったい誰が悪いのだろう?」(?)
幸楽苑側のミスだろうか?ぶっちゃけ、そうと言えなくもない。麺のスープへのたたみ方とか野菜の配分とか、そういう汁が飛ぶ可能性についての計算が甘いんじゃないのか?あのダイハツだって品質問題で不正を行うのだ。幸楽苑側にも品質に対する落度が、と考えたところでその選択肢は頭から消した。こんなうめー担々麺を作ってるんだ。それはねぇ。
あるいは「運」の問題だろうか?勘違いしないで欲しいのだが、これは今日の運勢的なところからくる運というレベルの話ではない。もっとアダム・スミス的な「神の見えざる手」という神の視点や、ゼロポイントフィールドでの宇宙のとらえかた、つまり量子力学的な視座からくる運のことを話している。
しかし改めて考えてみるとこの現象は数年前まではなかったことだ。そうか、わかったぞ。最近の僕は服装に気を遣うようになったからだ。
そう、数年前まで僕にとって服装はなんでもなかった。ラーメンの汁が飛ぼうが飛ぶまいが、それが服につこうがつくまいが、どうでもよかったのだ。服装を気にするようになった途端、ラーメンの汁が気になり始めただけのことだったのだ。
しかし、それでは気が収まらない。
誰かのせいであってほしい。なぜなら尋常じゃないくらい担々麺から汁が飛び散っているからだ。
「太陽のせいだ」
もう僕は完全にムルソー的な境地に達した。まさかカミュも異邦人のセリフが幸楽苑で名もなき中年によって呟かれるとは夢にも思ってなかっただろう。でもね、それが人生だよカミュ。不条理だね(テレペロ)
今日の僕はとびっきりにムルソーだった。
ラーメンの汁が何度も何度もスローモーションで飛び散っていた。不条理もラーメンの汁も僕のイライラもすべてが白日のもとにさらされた。