街に響く声、帰ってきた地元の祭り
西由良(94年生まれ 那覇市首里出身)
「サァ、サァ、サァ、サァ!」
街に響きわたる大きな掛け声。鐘の音。人々の声援。11月3日、首里の街に「首里文化祭」が戻ってきた。
今年は、この祭を目当てに東京から帰省した。なんてったって、6年ぶりの開催だ。大雨や、首里城火災、コロナ禍でずっと中止になっていた「首里文化祭」。久しぶりに開催されるとあって、期待は高まった。
祭りの当日は、龍潭池の前にある大通りに出店がずらっと並び、首里の各自治会がこの日のために練習した旗頭やエイサーなどを披露する。子どもから大人まで、地域の人は誰もが楽しみにするお祭りだ。ずっと待ち遠しく思っていた私たち家族は、SNSに投稿される旗頭の練習風景をみては心躍らせていた。
例年は、昼過ぎからゆっくり祭りに参加している。しかし、今年は朝9時ごろから、首里の聖域である弁ヶ岳にて行われる、旗頭の奉納もしっかり見届けた。一段と祭りへの気合が入る。そういえば、朝から参加するのっていつぶりだろう。祭りに演舞する側として参加していた、小学生以来かもしれない。
幼い頃の私にとって首里文化祭は、一年の中で最も楽しみにしていたお祭りだった。毎年欠かさず参加していたのだが、唯一、小学3年生の時だけは参加できなかった。運悪く、祭りの数日前に交通事故に遭い、骨折してしまったのだ。病院のベッドで、親に「首里文化祭、いけないの?」と尋ねたのを覚えている。入院しているのだから、行けるわけないのだが、この日だけはなんとかして行く術はないのかと必死だったのだろう。いまだにこの日のことは、家族で話題にされる。
初めてエイサーに参加したのは保育園の頃。夕方、母に連れられ公民館へ行き、お兄さんお姉さんたちから教わりながら練習した。演目は詳しく覚えていないが、多分、ミルクムナリとか、五穀豊穣あたりだろう。普段はあまり顔を合わせることもない、地域の上級生に教わって、緊張しながらも一生懸命踊った。
その時、祭りに演舞者として参加したのは私だけではない。実は、母も旗頭に参加していたのだ。今でも、女性が旗頭を上げるのは珍しい。母は、地域の旗頭を復活させようと活動する友人に誘われて参加した。その地域では、一度途絶えてしまっていたので、旗頭の上げ方は、首里の他の地区に教えてもらいに行ったそうだ。「女が旗頭を上げるなんて」と言われたりもしたようだが、母達は一生懸命練習した。
当日は、通りの中にいくつかある演舞場で、エイサーと共に旗頭を披露する。いよいよ、私たちの番がくると、母の旗頭は「子ども旗頭の皆さんです!」とアナウンスで紹介された。そこで初めて「え、これって子ども旗頭だったの!?」と気がついたというのは、今でも家族の笑い話になっている。練習の段階で気づかなかったのかと聞くと、母達は中・高校生も混じっているなとは思いつつ、そういうものだと思っていたらしい。ちなみに、今でもその地区の旗頭は続いている。
そんな風に、幼い頃から家族で参加していた「首里文化祭」。自分の住んでいる地区や、思い入れのある地域の旗頭を見ると胸が熱くなる。日中のパレードを堪能したあとは、祭りのクライマックスだ。首里中学校のグランドに、首里の旗頭が勢揃いし、圧巻のガーエーが始まる。今年は、旗頭だけじゃなく汀良町、末吉町、真和志町の3つの地区の獅子舞によるガーエーも行われ、一段と盛り上がった。
カン、カン、カカカン、カン、カン、カカカンと鉦の音が鳴り響いてやまない。ガーエーが終盤に差し掛かると、首里の様々な地区から集まった精鋭達があげる旗頭「瑞雲」の演舞が始まる。「瑞雲」は、首里のどの地域よりも大きく重量が重い。でも、さすがは精鋭たち。安定感は抜群で、ほとんど乱れない。最後のひとあげを行い、「サァ、サァ、サァ」の掛け声で「瑞雲」の演舞は終了した。瑞雲の演舞中、リズムをとるためにずっと鉦を叩いていた女の子が、終わった瞬間、グッと堪えていたものが溢れ出したように泣いていたのが印象的だった。
ガーエーの最後は、全ての地区の旗頭が一斉に上がった。運営から終了のアナウンスが流れても、なかなかガーエーは終わらない。祭りが開催できなかった、この5年間を取り戻すかのような時間。かつて祭りで踊った子どもたちも、今は大人になって見に来ているのかもしれない。地域の文化を受け継いだり、自分の子どもと参加したりしているのだろうか。戻ってきた街の賑わいを感じたり、懐かしい人と再会したり。とにかく、今年の熱気はすごかった。来年の首里文化祭が、今から楽しみだ。