改訳 バスク語の歌「Mendian gora haritza」
出題
テーマは迷いましたが、以前から「いつかやろう」ラベルを張って
放ったらかしBOXに入れていたバスクの小うた集より。
4月末日を一旦締め切りとさせていただきます。
私が住むことになったバスクには、だれが作ったのか分からない、古く、
そして何ともいえない懐かしさを感じる歌がたくさんあります。
この素朴で、なんだか足の下の土そのものに触るようなバスク人を
知ることが、自分がどこから来たのか、私たちがどこから来たのか、
(そしてどこへ行くのか??)そんなことに繋がるような気がしたので、
また皆さまのお力を拝借しながら向かい合えたら幸いです。
添付ファイルには、一枚目にバスク語の歌詞、二枚目にスペイン語の
誰が作ったともわからぬ訳、三枚目に日本語、ただし私がもとのバスク語の
各言葉の意味を何となく拾えるようにつけた記号のようなもので、訳では
ありません。言葉と言葉のかかり方が曖昧なまま残しているところも多々あります。うたと言葉のイメージから創作してくださっても、文法上のご質問を下さっても、別の言語を参照してくださっても。
*歌はこちらで聞いていただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=fs3LngYhbig(リンク切れ)
材料はこのワードとビデオ、調理法はおまかせいたします。
(2017年4月3日(月) 7:12)
出題本文
Mikel Laboa Mancisidor 作
Mendian gora haritza
ahuntzak haitzean dabiltza
itsasoaren arimak dakar
ur gainean bitsa.
Kantatu nahi dut bizitza
usteltzen ez bazait hitza
mundua dantzan jarriko nuke
Jainkoa banintza. (Bis)
Euskal Herriko tristura
soineko beltzen joskura
txori negartiz bete da eta
umorez hustu da.
Emaidazue freskura
ura eskutik eskura
izarren salda urdina edanda
bizi naiz gustura. (Bis)
Euskal Herriko poeta
kanposantuko tronpeta
hil kanpaiari tiraka eta
hutsari topeka.
Argitu ezak kopeta
penak euretzat gordeta
goizero sortuz bizitza ere
hortxe zegok eta. (Bis)
Mundua ez da beti jai
iñoiz tristea ere bai
bainan badira mila motibo
kantatzeko alai.
Bestela datozen penai
ez diet surik bota nahi
ni hiltzen naizen gauean behintzat
egizue lo lasai. (Bis)
山のなか うえ オーク
やぎ 岩を ゆく
海の 魂を つれてくる
みず うえに 泡
うたいたい いのち
さもないと 枯れてしまう 言葉
世界 踊ってるだろう もしできたなら
神 だったなら
バスクのかなしみ
黒いワンピースに ほつれ
鳥 しくしく それでいっぱい
気分を 空にする
与えて 新鮮さを
みず 手から 手へ
星々の 青いスープ いらっしゃい
生きている 心地よく
バスク 詩
墓場の トランペット
死 鐘 鳴っている そして
に 響いて
冴える きみの あたま
つらいこと きみにとって しまってしまって
毎朝 つくりだされている いのちも
そこに ある そして
世界 いつも フィエスタ じゃない
じゃない かなしみも
でもある 千もの りゆう
うたうための 喜びにみちて
いいかえれば やってくる かなしみに
火は 投げたくない
わたしが死ぬ その夜は すくなくとも
おやすみ やすらかに
結崎改訳
山に樫の樹々
岩々をゆく山羊
水のうえの泡は 海の
魂だわ
歌いたい さもないと
命は 枯れると
踊ってくれるだろう
神さまなら
バスク かなしみ 黒い
服は ほつれ いっぱい
鳥たち 流す涙
空のユーモア
与えて あたらしさ
水を手から手へ
星々の青いスープ
心地よい 生
バスクの 詩人は
墓場のトランペット
死の鐘が鳴ると 冴える
頭蓋骨さ
日々の悲しみと
朝生まれる命
そしてそれはそこにある
きみとともに
世界はいつでも
フィエスタじゃないと
悲しみもそうさ 千の
理由がある
喜びを歌う
あるいは悲しみ
火は捨てたくない 死の
まえの おやすみ
追記1
バスクに住む日本人・Yさんからの御題でバスク語の歌を訳す。
バスク語原文とスペイン語の訳詩、それにYさんによるぶつ切りな翻訳が添えられて、その訳のたどたどしい日本語を見ていると、訳してしまうことを戸惑うような、自然と原文のほうへと眼を向かわせる恥らいの美しさがあって心魅かれた。
それにしても、バスク語もスペイン語も解らないので戸惑う。添えられたyoutubeの動画を観るしかない。
その動画の音声は素朴なもので、初め聴いたとき、なんてことないと思っていたが、動画を聴き終ってすぐ、いつの間にか口笛を吹いていて、それがたったいま聴いたばかりのバスクの歌であることに気づいて吃驚した。一度耳にした程度でこんなにもすぐリピートできてしまうこの力はなんだろう!
それで有難いことにその動画はカラオケのように字幕がついているので、それに合わせて歌ってみると、でたらめなバスク語もどきながら、楽しい気分。
気づいてみると午前中ずっとyoutubeカラオケで過ごして家じゅうに偽バスク語の歌を響かせる快感で、すっかりトリップしていた。
バスク語なんて、意味わかんないけれども、意味わかんねえよ! という気分でふれあってみると、愉快で、そういえばバスク人はやたらに歌いたがるとも聞いていたから、バスク人になった気分で歌ってみる。スマートフォンに録音したじぶんの声が、わけのわからないバスク語の歌を気持ちよさそうに歌っているの聴くのは可笑しい。
訳については、「歌える」ということ中心に据え、Yさん仮訳とグーグル翻訳を借りつつ、空白を埋めるように言葉を充填していった。関係ないと思うけれども、前夜に視聴したテレビ番組「Love music 小沢健二 ライナーノーツ」がすばらしかったことも言いそえておきたい。ようするに歌っていいな、と思ったということです。
というわけで、「バスク語カラオケver.」と「日本語訳ver」の歌を音源でお送りします。訳詩は以下に添えます。一発録りでお聴きぐるしいところ間違いも多々ありましょうが、楽しく改訳できたこといままで以上で、喜びに溢れて感謝しきっている姿とともに、お見過ごしください。go
(2017/04/24 13:42)
追記2
Yさんの日本語は、どこかぶっ壊れていて、ああ、こんなふうに日本語を使ってもよいのだと、幸せな気分になる。じぶんもまた、聞きかじりのバスク語を口移しで歌って、「バスク語」で歌った気になっているが、ある言語を話すとは、その言語のようなものを話している幻想をだれかと共有する、その精度の差に過ぎないと思わずにはいられない。だれかとおぼつかない言語のなかで話すとき、自国語も多国語もともどもに壊しながら、なんらかのイメージのやりとりが行われている感覚を覚える。翻訳とは、じぶんの言語を異邦の言語のように感じ直し、母語を植えつけられたころの自身を再起動しなおそうとする、トラウマの対象化なのかもしれない(言語の習得はつねに外傷的である)。
樫包み込む 山
羊 岩肌をゆきて
海の魂がやってくる
みずに浮かぶ 泡
「樫包み込む 山」という表現にギョッとする。山から樫の樹々が生えているのではなく、樹々が山を包み込んでいるという発想。驚くべきなのは、次の一行の「羊」が、行替えによって「山羊」にも読めてしまうところだろう。しかも、羊は羊毛によって「包み込」まれている…… さらにそうやって「羊毛」を想像させておきながら次には「岩肌」とあって、刈られた羊の肌が見えるようだ。そして、岩肌を行くのは、羊というよりも、やはり山羊だとイメージしてしまう。「カシ ツツミコム ヤマ」と呼んでから、「ヤギ イワハダヲユキテ」と読みたくなる。
「海の魂」という得体の知れないものがやってきて、それがただの「みずに浮かぶ 泡」であることを知らされる驚き。
謳いたい 人生を!
じゃないと ことばが逝ってしまうから
「謳いたい」とあって、まるで水のうえの泡が、凱旋するかのようで、でも、おまえが口を開いたら、おまえは破れてしまうではないか。〈やってくる〉と〈逝ってしまう〉の対比。それにしても、海の魂を内包する水泡が、みずからの空無そのものである歌を謳おうする理由が、〈ことばが逝ってしまうから〉だとは……!
世界を踊りにかけようか
もし神とやら だったなら
〈世界を踊りにかけよう〉とは奇妙な表現、まるで世界をレコードプレーヤーのうえに置くように、気軽に誘いかけるかの言い回し。しかも、〈もし神とやら だったなら〉の曖昧さ。じぶんが神なのか、それとも世界が。まるで神だったら声をかけてもいいとでも言わんばかりのこの表現はどうだろう。
バスク村のかなしみよ
黒スカートのほつれ
泣きつかれた鳥は
鳴こうともしない
このあたり、単調で、とくに〈泣きつかれた鳥〉というのはそもそも「泣く鳥」というものがない以上、迫真力のない詩行。けれども、〈黒スカートのほつれ〉には、葬式の行きしなに、みずからの喪服にあるほつれを恥じる女の哀歓がこもっている。この鳥は夜通し泣き通した、なりたての未亡人の喩だろうか。
この目を 醒ましておくれ
みずを 手から手へ
蒼いすい星を呑み込みながら
生きているしあわせ
〈この目を 醒ましておくれ〉という朝明けの予感、水を〈みず〉と開いて「見ず」を連想させ、前詩行との流れのなかで、足元から頭上へと視線があがるのが見てとれる。水星は、日没と日出時にほんの束の間だけ見える星。溶かし込まれるように〈みず(水)〉が〈すい(水)星〉へと変化しているのは見逃せない。水星を呑みこんでいるのは空であるはずなのに、感じている幸せはどうやら歌い手のものであるらしいのは、やはり、「世界」や「神」と一体になっているということなのだろう。
世界はいつもおめでたいとはいかない
いつも悲しいというわけでもないよ
だけどある、千ものわけが
心から謳うための
心から謳うための、千ものわけ。バスクという地で、何度もこの歌を聴いてきたのであろうYさんが、あらためてその歌を、日本語に訳してみるということ。それも、人といっしょに。
「歌」ほど訳すことが無意味なものはないと思われるのにもかかわらず、敢えてこのバスク語の歌を選んだYさんの心中――、まるで叫ぶようになりふり構わず、日本語に落とし込もうとするその身ぶりに、言語というものの隠微で、恐ろしい力を思わずはいられない。
翻訳とは、ある種の「回復」なのだ――、そんな気がする出題だった。go
(2017/05/12 21:37)
追記3
この出題もとても楽しかったが、最後にすてきなメールがバスクの出題者Yさんから届いた。2017/05/14 9:10
これは「歌」なのに、なぜ歌ってみようと思わなかったのか!よく考えればそのほうが不思議ですね。結崎さんの“日本語版”を聴いていたとき通りがかった夫は“異国の歌”に興味津々でしたが、しばらくして「あっ」と声を上げたまま聞き入っていました。「この“日本の歌”が気に入った」のだそうで、車でかけるつもりなのだとか。
歌われていることが分からなくても、その声と音楽が心地良かったのが、日本語になった途端、それがずっと探していた、昔聞いていた歌だったような気がして涙してしまいました。言葉が全てではないけれど、理解したいという欲求を満たしてくれるのはやはり言葉なのかもしれません。
最後に結崎さんが拙文に驚くべき分析をして下さったのですが、恥ずかしながらほとんどは考えていなかったことです。ここまで考えて書けると良いのですが。特になぜ二行目を羊にしたのか、分からない。覚えていないのですが、山羊を連想させることには気づかず、山を想ったとき、恐らくそこに羊がいたのだと思います。もっと言葉その他注意深くならないといけませんね。
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