見るな。(短編小説)
「見るな。」、それが彼女の口ぐせだった。
ぼくと、彼女は高校の同級生。同じ大学を出て、同じ会社に入って、同じ部署に所属している。
二人の席は向かい合わせ。机の一番奥にファイルをならべ、ノートパソコンで仕事をしている。お互いの顔がなかなか見えない。
今日は、花火大会の夜。でも、二人は、いつもと変わらずオフィスで残業をしている。ここからは花火は見えない。でも、花火の音は聞こえる。
ひゅー、ばん、ばーん。
最初の花火が打ちあがった。
パソコンから少しだけ目を上げて彼女を見た。彼女の右のほおが花火でほんのり赤く見えた。そっと、またパソコンに目をもどした。
「見るな。」
彼女の声といっしょにフィルムに入ったバームクーヘンの小さなお菓子が飛んできた。
「食いものを投げるな。」
キーボードに落下したバームクーヘンを拾って見上げると、彼女と目が合った。
「見るな、気が散る。」
ひゅー、ばーん、ばーん、また、彼女のほおが花火で赤く照らされた。
二人は、また、パソコンに向かって仕事を始めた。
ひゅー、ばん、ばーん。
3発目、今度は、もっとゆっくり、そーと彼女を見上げてみた。
「見るなってば。」
怒られた。
★
そもそも、彼女の口ぐせは、高校一年の学年末テストの時に始まった。
彼女とは隣どうしの席、生物が苦手だった私は、ついつい、彼女の答案をチラ見してしまった。記述式の問題が多かったので、チラ見を繰り返していると、
「見るな。」
教室中に響きわたる彼女の声。
当然、ぼくは、生物の先生からの厳しいお叱りと欠点という不名誉をいただいた。
ぼくと彼女は、家が近所だったから、行き帰りがいっしょになることが多かった。中学校では、彼女はソフトボール部のレギュラー、ぼくは帰宅部だった。彼女は、放課後、部活で汗を流していた。ぼくは、本屋や喫茶店で暇をつぶしていた。なぜか、帰りは、同じ時間になった。
彼女は、高校一年の終わりにソフトボール部をやめた。
朝、いつものように駅までいっしょに歩いていると、彼女は、うつむきながら、ぽそっと、ソフトボールをやめたといった。横に並んでいた彼女を見ようとしたけど、見るなと言われそうだったから、やめた。
高校二年になって、彼女に彼氏ができた。
朝、駅の手前で彼女に突然言われた。ぼくは走り出した。振り返って彼女を見ることができなかった。ぼくと彼女は、別々の車両に乗った。
高校二年の夏、交差点の向こう側に、信号を待つ彼女と彼氏がいた。
信号が青にかわった。ぼくは、うつむいて横断歩道を渡った。見るなと言われるまでもなく、彼女を見ることは、到底無理だった。
高校二年の秋、彼女は彼氏と別れた。その頃から彼女はすこしずつ変わっていった。彼女は、教室でひとりぼっちになっていた。彼女にそっと目をやると、彼女は上目づかいでぼくを見た。ぼくは、彼女が見るなと言っているような気がして、目をそらした。
高校三年の冬、彼女は、電車で同じクラスの女の子としゃべっていた。その子が降りて、ひとりぼっちになると、彼女の目から涙があふれ出した。彼女は、見るなと言わんばかりにぼくをにらみつけた。ぼくは、うつむいた。
ぼくと彼女は同じ大学に入った。学部が違うので、あまり出会うことはなかった。
そんなある日、駅前で彼女とばったり出会った。ふたりで公園のベンチに座った。彼女は、学生生活をたっぷり楽しんでいるようだった。ゼミのこと、サークルのこと、これからの留学のこと、いろいろ話してくれた。ぼくは、バイトに明け暮れていただけだったから何も話せなかった。
彼女は、恋バナをいっぱいしてくれた。手振り身振りを交えてしてくれた。ぼくは、目の前のカーブミラー越しに彼女の動作を確認していた。彼女の声がしだいに涙声に変わっていった。見るなと言われるまでもなく、そんな彼女は見たくなかった。ずっと話だけ聞いていた。カーブミラーを見つめるぼくをおいて、彼女はベンチを去って行った。
★
ひゅーん、ばん、ばん、ばん、ばん、ぼーん、ぼーん。
最後の花火が鳴った。
「帰ろっか。」
彼女が言った。
「帰ろう。」
パソコンのふたを閉めながら、ぼくは言った。
会社から駅までの間には、長いガード下がある。低い天井、クリーム色のペンキで塗られた壁、蜘蛛の巣のはった蛍光灯、ひっきりなしに通る電車のごう音。ぼくは、このガード下が嫌いだった。でも、彼女とぼくは、毎日ここを通って駅まで帰った。
ガード下の真ん中にさしかかった時、彼女は言った。
「ロサンジェルスに行くことになったの。」
「えっ。」
ぼくは、彼女を見つめた。
「ロサンジェルス。」
彼女は、ぼくの目を見つめて繰り返した。
「おめでとう。」
そう言うだけで精いっぱいだった。それ以上彼女を見ることができなかった。ぼくは、うつむいて歩いた。
★
長いガード下を抜けた。
酒屋さんのシャッターの横にビールの自動販売機があった。350mlを2缶買った。両手で持ったけど、やけに冷たかった。
「電車混んでそうだから、あそこの公園に行かない。」
彼女は、うなずいた。
二人は、公園のベンチに座った。ぼくは、缶ビールを彼女との間に置いた。
彼女は、ぼくの目を見ていった。
「ありがとう。」
「えっ。」
ぼくは、彼女を見つめた。こんなにちゃんと彼女を見たのは、初めてかもしれない。
「いままで見守ってくれて、ありがとう。」
目がかすんできた。電車や駅の向こうのビルが歪んで見える。缶ビールを彼女に渡そうとしたけど、2つとも落としてしまった。
彼女が、1つ拾ってぼくに渡してくれた。
「ずっと一緒にいてくれて、うれしかった。」
缶ビールを受け取ったぼくは、彼女に涙を見せたくなかったから、上を向いて言った。
「見るな。」
ふたりは、吹きだすように笑った。そして、見つめ合った。
「乾杯しよう。」
彼女が言った。二人いっしょにプルタブを引いた。
プシュー。
泡が噴き出して、彼女のスカートの上に飛び散った。あわててハンカチで拭きながら、彼女は、ぼくを見上げて言った。
「見るな。」
彼女の笑顔が忘れられない。
(おわり)