不惑
今日は一日部屋にこもって過去に撮影した写真を現像しまくっていた。モデルさんのポートレート写真に限らず、友人知人を写した写真から風景写真まで。ここに友人知人の写真を公開するわけにはいかないので、また碧波彩さんの写真で。
現像の最適解が見つからない。お、いい感じに仕上がったじゃないか、と思ったはずなのに、数十分後に見直してみたり、あるいは iPhone に保存して見てみたりすると「・・・なんかパッとしないな」となったりする。
現像の選択肢は無限だ。経験を積めば積むほどその選択肢は広がる一方だと感じている。
不惑、と言われる年齢に達しているけれど、当の本人にその実感はない。確かに物事の「優先順位」で惑うことは少なくなったとは思う。自分にとってどうでもいい問題にエネルギーを消費することがなくなった。
けれど、個別の問題に対してどう向き合うべきか、どうすれば良い方向へと導いてゆけるのか、そこで惑うことは未だに多い。歳を重ねて視野が広くなった分、選択肢が多くなったと感じる。若い頃の自分には見えていなかった「別の方法」や「別の道」が見えるようになったと感じている。
歳を重ねて経験を積めば目に見える選択肢が増えるのは当然のことで、それは不惑という概念とは正反対のものではないだろうか。歳を食って惑わなくなる、なんて幻想なんじゃないだろうか。
なんて、写真をいじくり倒しながらぼんやり考えていた。