
HUNTERXHUNTERに学ぶ、「絶対に勝てない戦い」に「勝利」する方法
正直に言うと、私はゴンというキャラクターのことが、どうも好きになれずにいた。
HUNTERXHUNTERという作品をここまで好きであるにもかかわらず、その主人公が好きになれないというのは、考えてみれば、それなりに考察に値するテーマだ。
というか、他のキャラクターがこれだけ魅力に満ちているのに、どうして彼には一切の魅力がないのか、不思議なくらいである。
これまで、そんな風に考えてきたのだが、いま現在、現実的な生活のうえで、危機的状況を迎えていて、もはや如何ともし難い問題を目の前にして、ふと、そのことについての答えが湧いてきたのである。
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あらゆるプロジェクトは未知であり、事の成否はやってみなければわからない。
しかし、やるからには勝つつもりで戦う、それがプロの矜持であり、これは覚悟の問題だ。
プロならば、勝つことは当たり前のことであり、結果が出るのは当然だ。
なぜならば、それがプロだからだ。
しかし現実というものは複雑なものだ。
問題①
いかなるプロであっても勝てない戦いがある。
問題②
アマチュア以下のレベルのプロもいる。
現実的に、勝てない戦いが目の前にあったとき、「どんなプロでも勝てないものだったのだ」と総括するのか、それとも、「アマチュア以下の実力しかなかったのだ」と総括するのか、これは全然意味が違ってしまう。
「アマチュア以下のプロ」なんて、矛盾した表現だが、現実的に、そういう人はいくらでもいるし、HUNTERXHUNTER作品内でも、しばしば(かなりの悪意をもって)そういう人たちが描写されている。
まず手がかりに、ネテロとメルエムの戦いのことを考える。
蟻の王。ネテロといえば、誰しもが認めるプロ中のプロであるわけだが、その彼が、勝てない敵がいた。
「原爆的な兵器でもって自爆特攻する」という選択が、彼にとっての、プロとしての回答だった。
クラピカ的な考え方だ。
仕事を「快楽」ではなく「義務」として遂行する思考である。
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「絶対的に勝てない戦い」は、よく考えてみると、何度も何度も、この作品のなかで繰り返されている。
それは第一巻にしてすでに語られていて、ネテロとゴンがボール取りゲームをするあのくだりもやはり、「絶対的に勝てない戦い」だ。
ゴンとハンゾーの勝負。
ゲンスルーの一対一の勝負。
蟻討伐同行を賭けた、ナックルとの勝負。
ネフェルピトーとの初回対面。
いやまて、もしかしたらゴンは、最初から最後まで「絶対的に勝てない戦い」を続けてきたのではないか?
もちろん勝てる戦いは間にはさんでいるが、それはこの物語に色を添えているだけであって、話としてのターニングポイントとなるようなバトルは、常にこの種の戦いなのである。
ゴンが初めてピトーに直面し、逃げて帰るトラックの荷台で、「弱いことがこんなに悔しいと思わなかった」と涙を流した、あのシーンに宿るリアリティをこそ読み取るべきである。
「絶対的に勝てない戦い」は確かに「勝てない」が、だからそれでいい、ではなくて、やはりそこからは、「弱いことがこんなに悔しい」という感情しか生まれない。
そう感じられるかどうかが、「ハンターの資質」なのだと、物語の最序盤において、ネテロは示している。
もちろんそれでは話は前に進まない。ではどう考えればよいのか?
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どうしたって、勝てない戦いがある。
戦いに勝たないのは、プロではない。
プロとして生きたいし、勝ちたい。
どないしたらええねん、という話だが、冨樫はゴンに対して、「ボールは取れないにしても、会長に右手ぐらいは使わせる」という勝利条件を設定したのだった。
ゲンスルー戦において、「腕一本と引き換えに、一泡吹かせる」ということを「自分のなかでの勝利条件」としたのだった。
これは少年漫画のフォーマットにおいて、いかにファンタジーではない深みをもたせるのか、というテーゼと大いに関連していて、そもそも「なんだかんだ勝てる物語」なんて嘘くさくて読んでいられないから、それに対するアンチテーゼとしてHUNTERXHUNTERという作品はある。
もちろん、だからといって、敗北の美学を描けと言う話ではない。そんなものが読みたいわけでもない。
じゃあどうするか、という話なのである。
私達のプロジェクトにおいても、同じことが言えるのではないか。
当初設定した勝利条件に、どうやったって達しないことがある。
勝ちたい戦いに、勝てないことがある。
そのときに、逃げるか玉砕するかの理不尽な二択に追い込まれない方法。
少年漫画のジレンマを乗り越えるために冨樫義博が発明した作話の方法論、これにこそ学ぶところがある、そう思えてならない今日このごろなのである。