リアリティと、コンストラクタル原理
報道を見ていると、あっという間に首都陥落かという最初の報道から一転している印象がある。
一人ひとりの人間の自主独立よりも、専制と支配を重んじる国が、そのソフトパワーの薄弱さゆえに自ずと弱体化しつつある。そんな構図が見えてくる。
クリミアから今般の件への流れは、その悲鳴のようなものなのかもしれない。
今回のことで「暴力はペイしない」という結論に世界が到達するのか、またはその逆か。
ロングスケールで見ると、圧倒的に前者である。
しかし、例えばアフリカや日本その他の西側陣営諸国ことを考えると「押し付けられた自主独立や、曲解された自主独立は、本来の意義を持たない」という難題に直面する。
自主独立の本家本元である米国にしても、いまだ「フェイクと腐敗」の混乱期の真っ最中。自主独立の元祖である欧州は、今回の疫病禍のなかで「それを貫く難しさ」がみにしみた記憶も新しい。
だからこその、専制者の、窮余の一策だったのかもしれないが、かえってこれは、自主独立という思想の大切さを世界に思い出させる契機になるのかもしれない。
そもそも超ロングスケールで考えると人類は自主独立を尊んできた。だからこその現在がある。
となるとそこには、リアリティ進化の必然があるように思えるし、だとすれば、これもまたコンストラクタル原理のなせるわざのひとつなのかもしれない、と、思ってみたりする。
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