仕事は些細な理由で休むべきだ

風に乗ってこんな台詞が流れてきた。

「私は高熱で仕事を休むというのがわからない。熱が出ても身体は動くので私は高熱で仕事を休んだことがない」

バブル時代の「24時間働けますか」で鳴らした50代以上ならともかく、この台詞はもっと若い世代から発せられている。今どきこんなことを言う人が残っていたのだなあ、と妙な感動を覚える。

さてその台詞を聞いた人は即座に「それは駄目だ、病気が感染する恐れがあるから休みなさい」とたしなめていたが、私は感染リスクとは別の観点で休むべきだと考えていた。

前述の台詞の発言者が高熱をおして仕事をしたとしよう。身体が動くとはいえふらついたり顔色が悪かったりするだろう。業務に励みつつ「今日は熱があるんです」とか包む隠さず発言するかもしれない。

さて、そんな様子を眺めていた顧客はどう思うか。

「この事業所の職員は高熱でも普段通り働いてくれるんだなあ、助かるなあ」

そんな風に思われたらその事業所は一巻の終わりである。顧客目線でのサービス水準が「職員は高熱でも働く」と認識が切り替わり、事業所の全職員は高熱をおして働かなければならず、負荷が増すだけである。

では全職員が高熱でも休まず働くことが実現できたとしよう。ふらふらになって青ざめながらも全職員が業務に励み、休暇日数はなかなか減らず、業務サービスはなんとか維持できるのだろう。

さて、そんな様子を眺めていた経営者はどう思うか。

「高熱でも人員が欠けずにサービスが維持できているし、増員する必要はないね」

そんな風に思われたらその事業所は一巻の終わりである。事業所は屈強な職員による少数精鋭で(必要最低限な人員で)運営され、各職員には高い水準が要求されることになる。休むことは許されず、もはや働き方改革だとかワークライフバランスだとかから程遠い世界に突入することになる。

そうならないように、仕事は些細な理由で休むべきだ。職員が突然休むことを前提で事業所は組織運営をするべきだ。勤務日に全員が揃って100%の力が発揮できる職場が未来永劫続くなんて幻想は捨てるべきだ。そして職員が休むことを前提に経営者は余裕を持った人員を配備するべきなのだ。

サービス処理能力100を有する職員8人で構成された事業所と、サービス処理能力80を有する職員10人で構成された事業所とでは、事業所全体で発揮できる最大処理能力は100×8=80×10で等しくとも、健全であるのは後者なのだ。職員1人が欠けたときの処理能力が100×7<80×9であるからだ。

そして職員1人のサービス処理能力が高い組織は属人化を招く。組織としてサービスを提供しているのに「この業務に詳しいのはこの人だけ」という状況に陥るのだ。組織は人の入れ替わりが常であり、属人化は組織の高齢化、老朽化を招く要因となる。

さらには社会全体の雇用促進の観点でも、職員1人あたりのサービス処理能力は低い水準とし、多くの職員を雇用すべきなのだ。不景気や組織の高齢化といった社会問題は、組織が少数精鋭で「屈強な職員のみ雇う」方針としているからだ。

「休めない用事があるのに風邪の症状、なんとかしたい」と謳う風邪薬のテレビCMは、少数精鋭を助長し、社会問題を助長しているのだ。組織としてのあるべき姿は、職員が風邪で休んでも事業への影響が最小限となるように運営することなのだ。(余談だがテレビCMにありがちな「休めない用事」というのは重役会議だとか客先プレゼンだとかの「業務のキーマンと面会するイベント」で、日本の古い企業は誰かとスケジュールを整合して会うことを重視しすぎている感がある。今どき、同じ時刻に直接会わなくても情報交換や意見交換や議決をとる仕組みはいくらでもあるわけで、なぜ「時間」「場所」を整合するという手間のかかる作業にこだわるのか疑問である。このような旧来の伝統的な作法、会議という儀式に固執しているのも景気が伸び悩む一因だと思う。ステークホルダー全員slackに登録してプレゼン資料をアップロードしてチャットで議論すればそれ自体が議事録になって議決がとれるのに、それではいかんのだろうか?会議室に集結させて出席者に強制的に発言を促さないと議論が進まないというならば、それはもはや組織運営に問題があるのではなかろうか?)

以上より仕事は些細な理由で休むべきだ。プライベートは仕事よりはるかに優先度が高いのだ。職員が休むのが当たり前という風土を組織に根付かせ、余裕のある人員で運営するのが健全な組織なのだ。

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