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105.(49/365) 1人読書「間合い 生態学的現象学の探究 第4章」

相も変わらず「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)を読んでいる。
(前回の読書記録はこちら。)
読んでいると、「発酵」や「利他」、「関係性」など、自分が気になるキーワードと面白いぐらいにつながってくるから不思議。
そして、情報カードに気になった一文を書き抜きながらする読書がかなり自分の性に合っているらしいことも明らかになってきた。
やはり、ぼくの収集心はかなり強力な強み(?)らしい。
というわけで、今回は第4章から拾っていった一文たちをもとにして、思考を巡らせようと思う。

大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

意味を求めすぎてしまうのは、人間の性なのか。
仕事をしていても、意味のないことの肩身の狭さはますます大きくなっている。
でも、有意味を求めすぎると、意図が前面に出すぎて、それが余計な強張りになって、自分や周りを縛ってしまうことってないか。
もっと有意味でなければという呪縛から解き放たれて、もっと自由に自然体でふるまえればいいなと思う。

必要なものとは、自己を超えたところからやってくる必然である。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

主体性という言葉をあちこちで聞く。
もちろん、教育の世界では言わずもがな。
でも、主体性って、自分の内側から発揮するだけではないんじゃないかと思う。
向こうからやってくるものを受け取って発動する、ある種の受け身的な主体性もあるんじゃないだろうか。
自分から「必要だ」と求めるところに、実は本当に必要なものはそんなにないのかもしれない。
「必要は向こうからやってくる。」そう思うと、今、意味がないと感じていることそのものにも必然があるんじゃないか。
流れに身を委ね、世界の必然に応答していくことで開けていく未来もきっとある。
「置かれた場所で咲きなさい。」という言葉もある。

このように、受動的に体験される運動感覚によって、動きに自分が運ばれることで舞うようになったときには、舞は意識的に自己身体を制御しようとするときに生じてしまう強ばりや緊張、不自然さを克服することができる。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

この一文は、能における舞の極意について書かれていた箇所からの書き抜きだ。
あえて受動的であることによって、「自分から」という欲のようなものを捨てる。
しかし、「受動的である」という意図もここでは邪魔になる。
ひたすらに、自分の欲を消し、自分の体を入れ物として、向こうからやってくるものを受け入れ、その動きに体を委ねることによって、その演者の舞は完成し、それが観客に深い感動を与えることになる。
完全にわかったなんてことは、全然なくて、難しくてよくわからないのだけれど、それでも、ぼくにとってはとても重要な一文であると、直観が告げている感じがするのだ。
まさに、向こうから僕の方へと飛び込んできた一文と言える。
「みずから」と「おのずから」のニュアンスの違いなどはこのあたりと関わりがありそうだなと感じる。

言葉を学ぶとは、他人の声を通して話すことであり、腹話することである。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

音読の可能性や重要性にも通ずるのかもしれないな。

無心とは、相手に対して自分が作り出した場において、受身であるような状態である。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

場で起こることに乗っかっていくジェネレーターの在り方は、この「無心」の状態と通ずるところがあるように思う。
相手も自分も無心であると、そこにはお互いへの応答の応酬が生まれ、それが場をどんどんジェネレートしていくのではないか。
うまく言語化できないが、場で起こることに身を委ねることで、どんどん面白いことが起こってしまうという経験を何度もジェネ合宿で経験している身としては、非常にその体感覚に訴える一文である。

その時その場の舞台において、なすべきことが向こうからやってくる。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

先に取り上げた一文たちとも共鳴する一文である。
この「舞台」を「人生」に置き換えても同じではないだろうか。
「人生は自分で切り拓く」的な言説は世にあふれているけれど、その力みがかえって、あるべきものがあるべき場所へ収まらないような「不自然」を生んでしまうのではないか。
その「不自然」を感じ取ると、余計に「こうじゃないはず」「もっとこうしなければ」と力みを増し、それがさらなる「不自然」を生む。
そんなつもりがなくても、「力まねば!」「踏ん張らねば!」「押し流されてはいけない!」と思ってしまうことは、日常にたくさん転がっている。
でも、そんなときこそ、ふと立ち止まってこの一文を思い出し、問い直したい。
向こうからやってくることに力まず身を委ねられているか?と。

自分はじつにひ弱な身なので、相手を動かして、自分を生きさせる。

「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

ここまで第4章の言葉たちを集めてきて、当たり前だが、全てが「間合い」に集約されていくのを感じる。
言葉にしてしまえば当たり前なのだけれど、間合いが生じるには、他者との関係が必要になる。
そして、その間合いが、リズムを生み、自分を生かすことにつながる。
自分一人でできることなどたかが知れている。
相互作用により生み出される流れをうまく活かすことで、自分も相手も生きる。
たどり着けなかった場所へも到達できる可能性が高まる。
「みずから」のエゴを捨て、「おのずから」が包む世界へ。
「おのずから」は、次の「おのずから」を生む。
そうやって、常に類似のものが更新される意味での新しさが生まれ続ける。

ここまで来てふり返ると、現時点での書き留めた一文たちへの思い付きの言葉を無計画に書き連ねるという体になってしまった。(いつもやけど)
けれど、頭で意味を考える前に、向こうからやってくる言葉たちに身を委ね、それをそのまま書くことにフォーカスしてみた。
けれど、まだまだ「うまく書こう」「意味のあるものを書こう」という欲は捨てきれていないし、中途半端だし、意味がわからない。
けど、それでいい。
「整えよう」と思った瞬間に、きっと「整っていない」とジャッジされたことは、僕の言葉から零れ落ちてしまう。
だから、これでいい。
こうやって、色々なところで「無心」になろうとすることを積み重ねてみよう。
日々、様々な場面で「意味」を求め、求められ続けているんだから、ここでぐらい無意味であることにバチが当たったりはしないはずだ。

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