73.(17/365) AM5:00 Knorrカップスープ
最近、noteを早朝に書くスタイルになってきている。
本当は、その日のうちに書いてしまいたいのだけれど、いかんせん時間の使い方がまだまだ下手くそで、それ以外のやりたいこと、やると決めていることが終わらず、こうして早朝に書くに至る。
まあ、これはこれで、なんだかまっさらな状態の自分で(一晩寝て思考がクリア)書けるので良い感じなのだが。
しかし、今朝は、何を書こうか、迷う時間がいつもよりも長かった。
「書くことがないなんてことはない」と頭で繰り返す。
それが、いつの間にか「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」に変わる。
いやいや、マッキーは引っ込んどいてくれ。
とりあえず、きっとまだ少し寝ぼけているに違いない。
ということで、朝ごはんを探す。
我が家は、平日朝はあまり朝食を食べない。
だから、たまに食べようと思うと、食べるものを探す羽目になる。
部屋の中をキョロキョロ見回すと、あった。
Knorr(クノール)カップスープ。
カップスープ界の大手食品メーカー。
ぼくは、適当なスープ用の食器を出して、箱の中から一つカップスープの粉末を取り出す。
ティファールでお湯を沸かして、その間に、粉末を食器に入れて、準備した。
その時、粉末の袋に書かれた表示が目に入った。
ぼくが「あれ?」と思ったのは、「切り口」と書かれた上部の表示の両サイドに描かれた三角形たちである。
袋を無意識に手に取って、表示を確認し、僕は袋の上部を横にちぎって、粉末を食器に入れた。
この三角形。
見た感じ正三角形っぽい。
もし。
もし、この三角形単体がポツンとそこにあったら、それはきっとただの「図形」としてぼくの目に映る。
でも「切り口」という言葉を添えられた瞬間、この三角形は「矢印」に姿を変える。
けれど、もし一つだけ「切り口▲」のように書かれていたとしたら、ぼくは、横に袋をちぎるのではなく、縦にちぎっていたかもしれない。
三角形の「向き」や「数」によって、また思考が制限される。
それだけじゃない。
ぼくは、これまでの人生で何度もKnorrカップスープを飲んできた。
Knorrじゃないカップスープも飲んできた。
だから、正直表示が全くなかったとしても、きっと同じ開け方を無意識にしただろう。
このタイプの袋は、カップスープだけに限らず、カップラーメンの具材やスープ、粉薬の袋など、さまざまなところにあって、それらを開けるという経験をしてきたからだ。
そう、「経験」も、この袋を開けるときの思考に影響する。
それ単体では、なんの意味も持たない図形が、「言葉」や「向き」、「数」、そして、見る者の「経験」によって、意味を規定され、その結果「行動」が生まれる。
当たり前すぎて、普段考えることなんてないけれど、人は、「見たいものを見る」ということは、こんな日常の小さな小さな場面にも潜んでいるんだなあと思った。
こういうことって日々、無数にあるんだろうなあと思う。
こういう経験を、生まれてから人は無数に「経験」して、ある意味、人生のいくらかの部分を自動化している。
でも、自動化に至る経験は、全世界共通のものではなく、世界に自分1人だけのもの。
だから、他者と出会うとき、これまで自動化されてきた部分がエラーを起こすことがある。
でも、そこにエラーの可能性を捉えられなければ、その齟齬の原因や責任は他者に向く。
日々、無意識の中でも、学習を積み重ねて自動化はどんどん増えていく。
でも、その自動化に絶対はないことを忘れず、違和感を感じたときには、他責にならず、自分を振り返ってメンテナンスをする、そんな自分でいたい。
書きながら、横を見ると、いつの間にかカップスープは空になっていた。(お前が飲んだだけや)
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