多元世界に向けたデザインとは、愛と仏教的思想で紡ぐトランジションデザインである
「多元世界に向けたデザイン」という人類学者のアルトゥーロ・エスコバルの著書。
先進的なデザイン組織で読まれている一方で、とても分厚くて難解である。私自身、二ヶ月ぐらいゆっくりと読みつつ関連イベントに参加したりで理解が進んだので、解説と私なりの解釈を記述する。
結論から書くと、以下である。
・多元世界に向けたデザインとは、世界の流れを変えるためのトランジションデザインである。
・その方針は、「存在論的デザイン」と「開発から自治へ」である。それらは方法論というよりは、態度である。
・西洋的な支配的な開発によって未来が作られているようで、破壊されている。それ以外にも孤立などの問題は旧来の仕組みや態度からきている。
・(私の解釈では)西洋の哲学から仏教の哲学や愛に一部回帰しようという哲学である。
ではどうぞ、2万字をお楽しみください。
デザインの種類と階層
デザインの定義
デザインにはいくつも定義があるがここでは、よく引用されるハーバート・サイモンの「現在の状態をより好ましいものに変えるべく行為の道筋を考案する手段」や参加型デザインで有名なイタリア人デザイナーのマンズィーニの「望ましい機能や意味の達成のために物事がどうあるべきかに関する文化、実践」を意味とする。もちろん私たちが「デザイン」と聞いてイメージする「意匠」の意味よりかなり広く、もはや別物と考えてもいいかもしれない。そもそもの語源がラテン語の「Designare」で、それは「計画を記号に表す」という意味であったことを思い出すと、様々ことを設計する人という認識は難しくないかもしれない。
トランジションデザインとは
次に、多元世界に向けたデザインは、トランジションデザイン(Transition Design)を促すものであると考えられる。それについてはすでに大変わかりやすい説明があるので、引用する。
トランジションデザインとは、「システムから再構築するデザイン」のことで、そのためには多様な分野の知識が必要となる。
「多元世界に向けたデザイン」とは、まさに「多元世界」という新しいシステムを再構築するトランジションデザインのことである。
デザインのトランジションに対する影響の可能性を引き出すには、機能主義的・合理主義的・工業的伝統から生まれ、依然として支障なく機能しているデザインの現状を、生命の関係的な側面に同調するある種の合理性に向かう必要がある。
ペースレイヤリング
システムという単語は漠然としているが、以下の図の有機的な繋がりのことである。こちらはペースレイヤリングという文明を六つの階層で表した概念。流行、商業、インフラ、行政・政治、文化、自然の各層は前後の層の影響を受けると同時に、衝撃を吸収しながら、社会に大きなズレが起きないように調整する役割を本来担っている。例えば、文化を形成するには自然や政治との相互影響を考える必要があるということである。SNSなどインフラの発達の速度が速くなった結果、それより上の層と下の層で吸収しきれない歪みが生まれている。
多元世界(Pluriverse)とは
多元世界に向けたデザインの範囲は上記であるが、「多元世界(Pluriverse)」とは何なのだろうか。
それを理解するために、Universeを「一元世界」と捉えて比較を試みる。これらは、世界をどう捉えるかという点で大きく異なる。一元世界が統一された法則や枠組みによって世界を理解しようとするのに対し、多元世界は多様な価値観や存在が共存することを前提にした視点を持つ。
Universeは、その名の通り「一つの世界」を意味し、普遍性を重視する考え方である。近代科学や西洋思想では、自然現象や社会の仕組みは単一の法則や理論で説明できるという前提がある。たとえば、ニュートン力学や進歩主義的な経済発展モデルは、すべての人々や場所に適用可能な普遍的な原理を追求する。Universeの視点では、世界は統一された秩序を持ち、共有可能な価値観の中で発展していくものとして捉えられる。
一方、Pluriverseは「多様な世界の共存」を意味する概念である。この考え方は、単一の普遍的な価値観や理論を拒否し、異なる文化、自然観、存在のあり方がそれぞれ独立した「世界」として尊重されるべきだとする。たとえば、先住民の自然との共生思想や東洋的な哲学、西洋近代科学、それぞれが独自の論理と視点を持ちながら共存できると考える。また、人間中心的な視点を脱し、自然や動物、さらには非物質的な存在もそれぞれの「世界」を持つ主体と捉える。
この二つの視点の違いは、何を理想とするかにも現れる。Universeは単一の共通基盤を目指し、全世界が共有できる法則や進歩を追求する。一方で、Pluriverseは対話と共存を重視し、多様な「世界」が互いに関係し合いながら、新しい調和を模索する。
まとめると、一元世界は、単一の普遍的な世界を基本概念とし、統一的な価値観のもと、人間中心的で進歩主義の視点で、一つの共通の理論や法則を追求する。一方で、多元世界は多様な世界の共存を基本概念とし、普遍的多様性の価値観のもと非中心的で自然や他者も尊重する形で、異なる世界観や価値観と共存を目指す。
もちろん同じ抽象度の共同体・概念の比較だけでなく、異なるものでも多元世界的に考えることができる。この場合も、決して階層的にならないということが多元世界的ということである。
多元世界に向けたデザインの二つの方針
多元世界に向けたデザインを実現するにあたって、二つの態度が必要とされる。それは「存在論的転回」と「開発から自治へ」である。
存在論的転回
この概念はとても難しい。身体に馴染むのに一ヶ月ぐらい必要とした。
まず、「転回」とは「コペルニクス的転回」という言葉があるように、天動説から地動説というようなすべてがひっくり返るような大きな考え方の変化のことである。また、「存在論」とは哲学における主要な分野の一つで、「存在するものとは何か」「存在するとはどういうことか」を問う学問である。
そして「存在論的転回」とは、デカルト以降の認識論(知識や認識のあり方)中心の思考から、存在論を重視する方向へと転換する動きを指す。つまり「存在は認識よりも先立つ」という立場だ。世界を一つの枠組みで捉えるのではなく、複数の存在の仕方や世界の構成があると考えることである。
また、多元世界に向けたデザインが目指す「存在論」は「関係論的存在論」である。それは、存在が孤立した実体としてではなく、「関係」によって成り立つとする考え方。西洋哲学の伝統的存在観においては、独立自存する「実体」がまずあり、次いで実体どうしの間に「関係」が二次的に成立すると考えられてきた。それに対して、関係こそが第一次的な存在であり、実体は「関係の結節」にすぎないとして存在を捉えるのが「関係論的存在論」である。例えば、個人のアイデンティティは「社会との関係性」や「他者との相互作用」によって構築されるといったことである。
アマゾン先住民を研究した人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロは、アマゾンの先住民の世界観を「多元的存在」の具体例として提示している。彼らの「観点主義(Perspectivism)」という存在理解では、人間、動物、精霊がそれぞれ「主観」や「視点」を持ち、相互の関係性によって存在が変化すると捉える。人間が血と呼ぶものはジャガーにとってはビールであるという、世界はパースペクティヴ(観点)の多様性からなるという考えである。
「多自然主義」という考え方は、西洋の「多文化主義」の人間が一つの自然のもとで複数の文化を持つという考え方とは対照的に、「文化は一つだが、自然は複数存在する」ということである。
いやいや、一つの地球の上に暮らしているではないか、と思う。たしかに、私たちは物体としての一つの地球の上に暮らしている。だけど、一つの世界には暮らしていない。
存在論において「存在と時間」を記述したハイデガーは有名であるが、多元世界に向けたデザインは人類学的なハイデガー主義とも言われている。似た思想としての脱構築的なポストヒューマニズムやドゥールーズの脱領土化があるが、それよりも世界に対するケアを真に抱ける人間という存在に焦点を当てている。
ハイデガーは「存在」を単に物がそこにある状態ではなく、人が世界と関わりながら生きる在り方と捉えた。すなわち、存在とは静的な一つものもので存在しているのではなく、他のものとの動的な関係の中で存在しているということである。あなたの大事にしているものは、それを物体として表す何かであると同時に、それ以上のものでもあるだろう。それを含めて存在と考えるということだ。
また、存在論とは異なるが、言語論での実体論から関係論への転回について、デカルトやマルクスなどの哲学者や思想家やピカソ、モネなどの美術家の流れに即して捉えている女子美術大学の石井拓洋さんはこう書かれている。
「開発」から「自治」へ
二つ目の方針は比較的シンプルである。欧米諸国がアフリカや南米を採取主義的に行う開発ではなく、そこに住む方々を中心とする自治をデザインしていくことを重要とするということである。一見、言うは易し行うは難しの空論のように聞こえるが、まずは正確に捉えるところから始める。
「開発」とは、近代化と経済成長を軸にした一元的な進歩の概念である。ここでは、科学技術や資本主義、効率性といった西洋的価値観が普遍的とされ、非西洋の地域やコミュニティは「遅れている」と見なされる。開発プロジェクトは往々にして、外部からの専門家や資本によって進められ、現地の文化や自然環境に合わないインフラや産業が導入されることがある。その結果、地域固有の知識体系や伝統的な生活様式が破壊され、依存関係や社会的不平等が助長されるケースも少なくない。
「自治」とは、地域やコミュニティが自らの意思で生活や環境を決定・運営することである。多元的な世界観に立ち、異なる文化や社会が持つ独自の知識や価値観、環境との関係性を尊重することが重要である。自治は、画一的な「発展」を追求するのではなく、地域固有の文脈に根ざした「良い生き方」を探求する過程である。
例えば、求められる行為・態度としては以下のようなものがあるだろう。
ローカルな知識と実践の尊重:
地域住民が長年培ってきた知識体系や技術を尊重し、それを基盤に問題解決や生活改善を図る。関係性の再構築:
人間同士だけでなく、人間と自然、土地、物との関係性を再考し、持続可能な共存の形を模索する。対話と共創:
外部の支援者や専門家が関わる際も、上からの「指導」ではなく、対話と協働の姿勢を重んじる。自己決定権と主体性:
コミュニティが自らの未来を設計し、そのプロセスで自律的に意思決定を行う。多元的な価値観の承認:
一つの「正解」を押し付けるのではなく、異なる文化や存在が持つ多様な価値観を認め合う。
これらは、人類学者クロード・レヴィ=ストロースが、著書『野生の思考』でいう「ブリコラージュ」という概念に近い態度が必要とされている。ありあわせの手段・道具でやりくりすることで、本来の用途とは関係なく当面の必要性に役立つ道具を作ることである。事前に緻密に設計して順に進める「エンジニアリング」と対比されるものである。
すなわち、多元世界に向けたデザインは、単なるモノやシステムの設計に留まらず、こうした「自治」のプロセスを支援し、可能にする手法である。デザイナーは外部からの「解決者」ではなく、地域住民と協働し、コミュニティが自らの力で変化を生み出すための環境やツールをデザインする。
この転換は、持続可能性や倫理のある社会、文化の多様性を尊重する未来への道筋を示す。従来の開発主義がもたらす単一の進歩観から脱却し、それぞれのコミュニティが自らのペースと価値観に基づいて豊かさを追求できる世界へと移行するのが、「開発」から「自治」への転換である。
二つの方針の関連性
まず関係論的存在として存在を捉え直す。そうすることで、人間を人間たらしめる見えない何かに対する敬意と畏れが芽生える。そうなると第三者的で客観的な開発ではなく、一人称的で見えないものに対する愛と配慮が中心の行動ができるようになる(少し楽観的かもしれない)。それを行うためには自治が必要であるということである。
なぜ関係論的存在論と自治が必要か
なぜ認識論から関係論的存在論へ転回と自治への転換が必要なのか。もちろん、認識論で捉えたゆえに人間が自然から切り離され、自己変革を求めて、文明としてここまで豊かになった。それは有難い前提としつつ、そこで生じた問題に目を向けて考えてみる。
問題の概要
1951年の国連報告書には以下のようにあり、先進国が貧困国を「第一世界」に加えるために近代化を援助するという大きなトランジションデザインプロジェクトだと捉えることができる。
今これを打ち出すと傲慢と批判されるであろう考えを持って遂行してきた。これは、それ以前何世紀にもわたって生活を支えてきたその土地固有の実践を切り捨てる「排除のデザイン」であった。すなわち、グローバルサウスの開発はグローバルノースの西洋中心主義的な世界でのデザインであった。
18世紀後半以降、経済の強化に伴って個人、現実、科学、経済を優先する世界観が生産と消費、個人の成功を促し、未来を志向し、精神性とあらゆる存在の統一的意識を、人間・個人と切り離された物質主義と所有によって従属させる価値観に進めてきた。
すなわち、我々自身を自然や他者から切り離された存在と見なすようになってきたということである。その結果、「自分ではない」場所、自然、風景、空間、時間への愛着を捨て、歴史を通じて人間存在の多くを形成してきた「今、ここに」に言及することなく世界が構築されるようになった。
その危機感を興味深い言葉で表現した二人がいる。
道具化
20世紀後半に活躍したオーストリアの哲学者イヴァン・イリイチは、「道具化」というわかりやすい言葉で近代社会に対する危機感を示している。
「道具化」とは、人間が自らの能力や自律性を失い、技術や制度に依存していく過程を指す。例えば、医療や教育、交通といった社会システムが発展する一方で、人々はその専門家や機関に頼るあまり、自分で問題を解決する力や自己決定権を失ってしまう。
こうした道具は本来、人間を支援するものだが、やがて人間が道具に支配され、道具のために生きるようになる。イリイチは、これを「制度的依存」と呼び、過剰な制度化が人々の自由や創造性を奪うと指摘した。
しかし、道具化は止まらず、コンヴィヴィアル(自立共生)な生活様式が組織的に破壊された。その結果、人々が尊厳ある生活を送る力を削がれ、複合的で複雑なシステムに埋め込まれた「超道具社会」が生まれた。
「Design designs」という存在論的アプローチを実行する上で重要なフレーズは、人間がデザインしたものに人間がデザインし返されるという意味であるが、これはまさにその例である。デザインとは世界を変えるものではない。むしろ、世界が私たちを変容させるための、私たちを変容させてしまう行為である。
Defuturing(デフューチャリンング)
もう一つは、デザイン理論家であるトニー・フライが提唱した「Defuturing」である。未来について考え、可能性のある結果を想像し、未来を計画するための体系的なプロセスに関する学問である「Futuring」に対して、「De-(~から離れて)」という接頭語をつけて、人間、そして人間が依存している生物圏の未来を否定する行為を未来を壊す、未来から離れるというものである。
『Defuturing』の2020年度版の序文にはこういう一節がある。
私たちは、未来を考えてデザインしている(と少なくとも願いたい)。それは同時にそれ以外の未来を破壊していることに繋がっている。開発が与える生態的影響や存在論的影響をあまり考慮せず(というよりも絶対にできない)、あるべき未来などと一元的な世界観を描いて開発を行っている。この問題を提起しているのがトニー・フライである。
One-World-World(OWW)とは
このイリイチの「道具化」やトニー・フライの「Defuturing」という問題を起こした開発の態度に関するキーワードとしてOne-World-Worldが出てくる。ジョンローが提唱した概念で、「世界は多様ではあるけど、一つの世界がある」という考え方である。
一見、素晴らしいことのように聞こえる。つまり、多文化主義的にこのように考えている。「実際私たちは一つの地球・現実の上に暮らしている。その中で、複数の文化が並列している。各文化に序列はない。」
しかし先述の通り、この一つの世界の上に世界が成り立っているということがまさに西洋の支配的な考え方に染まっている。すなわち、いろんな世界がある、でも最終的には一つの世界という現実の上に乗っている、いろんな文化圏が乗っている一つの大きなお皿のようなものがあるという認識論的にメタ的な視点で記述することが欺瞞である。
OWWとは、多様である世界を認めながらも、科学的で客観的な世界が唯一の世界である権利を持ち、他の遍く世界を自身の条件に従属、あるいは存在しないことにするものである。西洋近代の帝国主義的な支配的な形態のことである。根底にある一つのリアリティと多くの文化からなる一つの世界にあらゆる人が住むと考えている。
では、多元世界とは、OWWではない世界とは、なんなのか。それは、何度も言うように、認識論ではなく存在論として複数の世界があることを理解することである。
西洋では、世界は我々の外側にあり、我々はそれに囲まれているという客観的な視点に立っている。一方で例えば、オーストラリアの原住民のアボリジニにとって、土地は人々のものではない。人々が土地のものである。連続的な創造のプロセスは、土地、人々、生命、精神世界を、特定の場所で、全て再実行すると考えられている(かもしれない)。
このように問題を大きく捉えると八方塞がりのように聞こえるが、異なる現実がいかに別々の存在論的差異を持つことをエスノグラフィックに示すことと、多元的世界観に基づく存在論的政治によって、打ち消していくことができる。
政治存在論のために自治
存在論的政治によって打ち消すというのは、ペースレイヤリングの「Governance」、つまり政治・行政のレイヤーが一つの大事な層であるということである。
前提として、政治はあらゆる分配を決めることを一つの役割としている。その分配の対象として、経済、生態(環境)、存在の三つ規模の異なるものがある。
政治経済論(Political Economy)は政治と経済の相互作用を分析する学問で、国家の政策、法律、権力関係が経済活動にどう影響するか、また経済構造が政治にどう影響するかを探求する。例えば資本主義と国家、国際貿易政策、所得分配と権力。
政治生態論(Political Ecology)は環境問題と政治・権力構造の関係を考える学問。環境破壊や資源分配の不平等が、どのように政治的・経済的要因によって引き起こされるかを分析する。例えば、先進国の消費が途上国の森林破壊につながる構造、水資源を巡る権力闘争。
政治存在論(Political Ontology)は関係論的存在と政治の関係を考える学問。人間や動物や自然環境という独立した存在への影響ではなく、関係論的存在論としての存在に対する影響・分配を検討する。多元的な「現実」の存在を前提に、それらの間での摩擦や対立も考察する。例えば、西洋的な近代国家観と先住民の世界観との衝突、現実や真理の定義を巡る政治的争い。
例えば、開発される側にとって、その土地・環境はどういう成分でできていて、酸素がどのぐらい減ってしまうとかそういう生態的影響以外にも、何か主観的に強く結びついている関係があるはずである。この前者が生態論で後者が存在論である。これは例えば、静岡県のリニアへの反対にも関連している。
企業や国が経済目的で開発しようとしていることを生態論によって説得しようと試みて、開発される側から存在論影響で反対を受けるという構造は目に余るほど確認できる。客観性には限界があるということだ。
それ故に、政治経済論や政治生態論だけでなく政治存在論を実行するためには、当事者であり一人称的な感覚を持つ住民が自治としてデザインする必要があるということに帰結する。
問題は家父長制と二元論にある?
「多元世界に向けたデザイン」では、こうした問題が主に家父長制と二元論にあるとしている。反論が起こりやすい内容であり、記述を避けられている部分であるが、納得できる部分もあるので記述する。
家父長制
先述した物質と精神を分離し、支配と従属の構造を強化するという行為が家父長制の錬金術であるという。それは、人種的・植民地的・支配的であり、他の生物や存在から距離をとる。その結果、場所、自然、風景、空間、時間への愛着は捨て去られ、「ヒット・エト・ヌンク」(今ここ)ではない、抽象化され、搾取可能な世界が構築されるようになる。(p.50)
これをわかりやすく表現する「世界村(World-Village)」と「世界国家(World-State)」という対比がある。世界村とは、包摂、参加、協働、理解、尊敬、神聖さが強調される世界観であり、世界国家とは、二元論的な存在論のもと、男性が支配する公共圏と従属的な女性の私圏によって構成される共同体に基づく世界観である。
ここで私は、エネルギーと物質は常に交換されているという宇宙の原則を思い返す。すべての存在は相互に連関し、人間のあらゆる行動は存在の全体性に影響を与える、という継続的な了解のもとでのみ行動が成立する。これが「世界村」の考え方であろう。
E=mc^2 E:エネルギー、m:物質、c:光速
「世界村」では、自然と人間、精神と物質、公と私、自己と他者の間に硬直的な境界線は存在しない。むしろ、それらは動的に交差し、絶え間なく交感する存在のネットワークとして捉えられる。ここでは、個々の存在は孤立した実体ではなく、織りなされた生態系や文化、歴史、感情の中で相互に生成されるものである。
「世界村」の視点は、こうした分断を癒やし、私たちがヒット・エト・ヌンクで共生するための道を示唆する。それは、関係性の回復であり、相互尊重に基づいた共同の未来の再構築である。
これに対し、「世界国家」の枠組みでは、支配・被支配の構造が固定化され、切り離されたカテゴリーが階層的に配置される。そこでは、物質は支配の道具となり、精神は理性によって統制され、場所や自然は「資源」として収奪される。結果として、人間関係や自然とのつながりは断片化し、孤立した自己と不均衡な権力関係が再生産され続ける。このような認識で家父長制と道具化が繋がっていると述べられている。
この不信と支配、操作と占有、制圧と服従のシステムがいかに「愛の生物学」に干渉したのか。協働と相互尊重の領域から、政治的同盟、相互操作、相互虐待への領域に人間を押しやっているのか。
愛の生物学
愛の生物学(biology of love)は、あらゆる豊かな社会性の原則で、それが干渉されると社会生活は終焉を迎えるとされている。その愛の生物学とは何か。ここでの愛というのはどのような意味なのか。私たちは何をどのように愛すればいいのか。
生物学者のフランシスコ・バレーラが「我々はただほかの人々とともに生起させる世界だけをもつのであり、それを生起させるのを助けてくれるのは愛だけだ」というように、我々は愛とケアと尊敬を自然発生的に実現されるような存在様式を求めなければ世界を生きることができないということである。
ここでもこのように述べられている。断絶や孤立などに対する直接的で明白な答えは、自分の身体や非人間の世界、生命の流れを再び互いに結びつけることだ。つまり、答えの一つは「関係性」である。
その関係とは、相互依存の関係性である。ただし、これは独立した物体が相互作用するということではない。そのような関係性では未熟である。相互依存の関係は三段階で捉えられる。
第一に、物事を独立した状態で相互作用すると考えることである。ここが相互依存と聞いて思いつく状態だと思われる。相互作用はするが独立していると考えている状態である。
次に、相互作用の中にある状態で考えること。すなわち要素を静的な状態で考えることをせず、常に相互作用の関係性の中で考えることである。
最後に、物事を相互作用の中にある状態で考えることから、物事を相互に構成するもの、つまり他の物事との依存によってのみ存在すると考えること。これは関係論的存在でしか存在しない前提に立って全てを考えるということである。
仏教はそれ自体で存在するものはなく、全ては相互に存在し、我々は地球上のすべてのものと、相互とともに在る(inter-are)という強力な考え方がある。これは木村敏の「あいだ」にも通ずる概念であるが、存在、行動、認識の継ぎめのない偶発的同時性の上に成り立っているという考えである。
言い換えると、自己と世界は区別されるものの、その間には根本的な連続性があるということである。
科学は客観性のために感覚から認知と情動と考えを分離することによって孤立と暴力の病理に向かう近代に進んだ。バレーラによれば、二元論によって反省が思考中心になり身体生活から切り離されたことによって、心身問題が抽象的な反省の中心主題となったとされる。認知とは「所与の心による所与の世界の表象」ではなく「世界の存在体が演じるさまざまな行為の歴史に基づいて世界と心を行為から産出すること」である。
つまり思考中心によって生まれる心身問題から逃れるためには、存在と世界が一体であり、投げ込まれた状態である「Thrown Togetherness」を目指すことである。
このような感覚・関係性はとても難しいことのように思うが、昔から考えられてきていた。バラモン教、ヒンドゥー教の勇敢な神の名に関する宮殿を飾るインドラの網とはという宝網がある。そこには、互いに互いの光を映し合い、照らし合っている。まさにそのような関係性のことであるが、これが先人の知恵としてあったということである。
アマゾンで暮らすヤノマミのドキュメンタリーではまさにこの姿が映されている。出産は当事者である女性とその他数名の女性が森の中で行う。そして、お腹から出てきた生物を子供として迎えるか、精霊として森に返すか、その場でその生物を体内から迎えた女性が決定する。その後、子供として受け入れる場合に初めて男性は顔を見れる。それに関するすべての決定権は女性にある。また、森の中での魚の漁獲も取れるだけ取るのではなく、何かを感じて量を決めている。自然も家族も自らも一体という感覚なのだろうか。
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」との関連
徐々にデザインの話から存在論と孤立と愛の話に移ってきたが、愛についてもう少し深く理解する。私は、多元世界に向けたデザインと名著「愛するということ」の関連が強くあるとどうしても思う。
フロムによると愛と、孤立感の克服は根源的に近く、強い欲求であるという。そして、孤立から逃れるためには一体感を得る必要があり、それには以下の三つの方法があるという。
一つは「祝祭的興奮状態」である。儀式や麻薬や性的体験など興奮状態による合一体験のことである。これらの体験が孤立を解消するためには以下の特徴が必要である。強烈であり、精神と肉体の双方にわたり、長続きせず、断続的・周期的に起こること。また、これらは集団、慣習、信仰の上に成り立ってきたが、個人化が進む中で失われつつある。
二つ目は「集団への同調」である。瞬間的なものではなくとも集団に同調すること孤立は緩やかに解消される。集団に身を預けることで自分の自我という意識が小さくなるからである。同調すると能動的に書いているが、必ずしもそうではなく気づいていないところでの同調も含む。例えば、仕事も娯楽も型通りのものにするということもその一部と考えられている。
三つ目が「創造的活動」である。芸術的なものもあれば職人的なものもある。誰にも知られないような小さな自分だけのこだわりもここに含まれるだろう。創造的な活動は素材と一体化することができる。素材は外の世界の象徴である。
全て大事であることを前提としつつ、一つ目の方法は一時的であり、二つ目の方法は偽りの一体感である特徴があるため、三つ目の方法が人間にとって最も持続的で有効な愛の表現方法、孤立の解消方法である。
創造的活動の対象である「外の世界の象徴となる素材」は物だけでなく人であることも多い。例えば、その場にしかない会話は一つの創造的活動である。しかし、軽薄なコミュニケーションでは達成しない。重要なのは、同一ではなく一体である。しかし、今日使われる平等は「同一」を意味している。元々は存在論としての「一体」であったのにそれが個性を失った同一になってしまっている。
個人という存在を強化した啓蒙主義哲学者たちは、個性の発達のための一条件として平等の概念を用いた。すなわち、何人も他人の目的達成のための手段であってはならない、平等とはすなわち、自分こそが目的であって他人の手段ではないということである。しかし残念ながら、異なる感覚で平等が使われることが多い。
多元世界も同一ではなく、一体を根底としてる態度である。つまり、三つ目の方法である「創造的活動」を通じて人間または世界との一体感を継続的に持つという態度であり、それに必要なのは世界に対する愛である。
どういうことか。ここでの愛とは何を指すのか。
愛の基本的な四つの共通要素は「配慮」「責任」「尊重」「知」である。
愛とは、愛するものの生命と成長に積極的に気にかけることである。すなわち、この積極的な「配慮」のないところに愛はない。一番はっきりしているのは子に対する母の愛であるが、同様のものが他の人に対する愛、自然やものに対する愛にまで感じることもできる。
次に、「責任」とは何かが求められたときの、対応である。責任があるというのは、要求に応じられる準備があるということで、本来義務や外から押しつけられるものを超えて存在するべきである。
「尊敬」はre-(繰り返し)-spicere(見る、注視する)というrespicereを語源としているように、他者や物事を表層で判断せず、深く見つめ直し、関係性の中で価値を再認識する態度のことである。ありのままの姿をみて、それが唯一無二の存在であることを知る能力のことである。何かを愛するとき、それと一体感を味わうが、あくまでありのままのその人と一体化するのであって、それを私の自由になるような対象にするわけではない。
最後に人を尊敬するには「知」らなければならない。そうでなければ、配慮も責任も当てずっぽうになってしまう。
最近、「ケア」というワードが増えているが、それは愛に近いように感じる。先日伺った展示では、ケアとは「気づくこと」であり、その上で「共にあること」。すなわち、「生を肯定すること」だというメッセージが、多くの展示に共通していた。
この辺り全てが、この方針が人類学的ハイデガー主義で、世界に対するケアを真に抱ける人間という存在を信じる思想として流れているということに繋がっている。
アリストテレス的二元論と逆説論理学
このような考え方は新しいもののように聞こえるが、どこか懐かしくも聞こえる。実はこれは西洋的な考え方から東洋的な考え方へのシフトであり、その点私たちには深い部分で共感できる部分があると感じている。言うまでもなくそれほど単純な話ではないのだが、ここでは西洋の考え方と東洋の考え方と二つに分けて簡単に記述する。
西洋のアリストテレス的二元論は、最高の真理は正しい思考のうちにあり、真実は一つであるということを根底の思想としている。それゆえ、「XはAであると同時に非Aである」ということを認めない。その結果、教義と科学というものをもたらし、この数世紀の発展に大きく寄与してきた。
基本的な三つ二元論は以下であり、近代の構成の中心となってきた。
自然 / 文化
我々(文明人) / 彼ら(野蛮人)
主体 / 客体
そこからたくさんの二元論的な考えが派生している。
人間 / 非人間
活性(生命) / 不活性(物質)
理性 / 感情
観念 / 感覚
現実 / 表象
生きているもの / 死んでいるもの
個人 / 共同体
科学 / 非科学
事実 / 価値観
この従属された右側が生命そのものを構成する重要な次元であることは議論の余地がないことは明らかなように思えるが、ペースレイヤリングの中の「インフラ」と「商業」が左側の加速を促していて、その歪みが多くの人間の違和感を無視して進めているように思う。なので根本的には、二元論の破壊によって理性の支配の弱化、中心性の転置に繋がっていくことが想像できるが、その破壊がとても難しいことも同時に真実であろう。
一方で東洋の考え方は逆説論理学が根底にある。厳密に真実である言葉は逆説的であるように見える。「一つであるものは一つである。一つでないものもまた一つである。」と一見矛盾した考えを持っていて、人は矛盾しておいてしか知覚できず最高の唯一のの実在であるとする。神を思考によって知ることはできず、世界を知る唯一の方法は思考ではなく行為、、すなわち一体感の経験であるとする。これ故に、寛容と自己変革ということを重要としている。
蛇足だが、日本でジョブ型雇用が進まないのは、日本は上記のような理由で寛容と自己変革というものをベースに関係性を育むために根本的にメンバーシップ型の方が合っているからだと思う。
デザイナーとして求められるスタンス
ここまで、「多元世界とは何か?」ということとその問題点を哲学的に多面的に捉えてきた。背景と問題意識、そして社会としての思想・態度の転換が必要だというがわかったとして、一個人としてどのような態度で臨めばいいのだろうか。これはもちろん多様であるべきだろうが、二つご紹介する。
文化を「耕す」という態度
文化を表す「Culture」は「Cultivate」からも分かる通り、ラテン語の「耕す」「守る」「手入れをする」という意味の「colere」を語源としている。ただ、現状デザインによって文化は耕されているか?ということには疑問が残る。
商業のためのデザインが中心になっていて、文化を消費しているのではないか。耕さず実を食べ続けると土壌がやせて、文化が衰退していくというのは語源的にも感覚的にも理解しやすい。
文化とはさまざまな対象と側面があるが、地域文化を考えてみる。
地域文化とはその地に根づく、住民に愛され育まれてきた風習や技術、行事のことである。つまり自然から切り離せない。風土と暮らしは本来密接に繋がっていて、人はその恩恵を商品にして換金したり、衣食住に生かすために技を発展させてきた。
風土の話でよく思い返すのは土地の色と音の視点である。昔、何かを作るための材料はその土地でとれたものだったので、例えば建物はその土地にある土の色や木材や塗料の色に染まっていた。それゆえに街ごとに色があった。また、気候も関係しており、湿度の高い地域では光が錯乱してぼやけて見えるため材質が認識しやすい塗料が使われるような工夫があった。また、美を追求したのかはわからないが、色み、明るさ、鮮やかさの三つのバランスがうまく調和されている街並みが昔にはあったとされる。
音に関しては音響生態学者のバーニー・クラウスが風、波、雨といった自然から発される音を「ジオフォニー」、鳴き声や羽音など生物が生み出す音を「バイオフォニー」として、それらが周波数帯域を棲み分け、不協和音が生じない調和がとれた世界を構築しているという。そこに対して人間の発する音「アンソロフォニー」がどう邪魔をしているか、などを考える必要がある。
これはごくわずかな側面であるにもかかわらず、客観的に理解することはかなり難しいということがわかる。文化というのは意図的に作ることは難しく、偶然の連鎖が必要である。偶然は「有ることも無いこともできるもの」「何かと何かが遇うこと」「何か稀にしかない」ことである。それはあたかも自分も対象(非生物であっても)も能動的に関与していると感じることが重要だ。これは身体の無数の反応によって起こるので、意図されたランダム性とは異なるためインターネットでは限りなく作りにくい。つまり、文化というのは「場所」と「時間」と「共同体」がなければ成立しない。
また、文化の発展様式は以下のような複雑で大きな構成・システムの上にあることを認識しておかなければならない。
インターネットはもちろんあらゆるものに広くすぐにアクセスできることを実現させたメディアであるが、「場所」と「時間」を消滅させるメディアであり、文化を「耕す」のに相性が悪いものであるかもしれない。それは、オンラインの決済手段がなかったので広告課金モデルが主流になり、アクセス数を重要視するために人気なものを人気にさせる価値決定の流れによって文化の消費を加速させたという理由もあるだろう。
彫刻家のアルベルト・ジャコメッティは「機械が沸かしても手で沸かしてもできたお湯の暑さに変わりがないなら、楽しいほうがいい」と言った。私たちは楽しいより「楽」を優先させるほうが多い。理解せず簡単に使えるものが増えると、理解しようとする辛抱をやめ、未知の他者やものに対する想像力や感受性はやせ細っていく。そしてそれは人に対してもそのような態度になり、さらには自分に返ってくる。これもまた、Design designsである。すなわち、効率を求めると「在り方」と向き合う時間は限られていく。便利であるものが私たちから文化を奪い、在り方を奪っているかもしれない。
処方箋となるであろう芸術文化体験は個人に内省を促す。自分自身や人生についての理解を深めることで、他者に対する共感を高めること、人間の経験や文化の多様性を理解することにつながる。
とはいっても、何もかもを獲得するのではなく、吸収できないものは潔く手放せばいい。そうして身軽になって、そこからまた新たな対話を楽しめばいい。
「応答」しつづける
ここ数十年、HCD(人間中心デザイン)という概念が中心にあったように思う。人間が人間であるためのそのための心地よいデザインは何か?をデザイナーは考え、デザインしてきた。しかし、ここ最近は新しい兆候が見られている。
モノ、技術的変化、個人、市場と結びつけられ、経験豊富な専門家によって実践される従来的な意味のデザインから共同的、参加型で、人間の経験や人生そのものの生成に大きく焦点を当てたデザインへと向かっているという。特に、クリティカルデザイナーは、人類学的手法に基づく観察を新たに乗じつつある社会的実践についての思索を組み合わせ、独自の知の形式を発展させている。
人類学者のティム・インゴルドはこの形式を「応答」という言葉を使って表している。
応答「correspondence」は、ラテン語の「correspondere」でcom(共に)とrespondere(答える、反応する)を語源としている。respondereだけではなく、comである。一緒にとは何と一緒になのか。対象と一緒にである。つまり連続的に対象と応答し続ける必要がある。つまり、無限の間を絶えず感じ続けるということである。彼の著者「Correspondences」が「応答、しつづけよ。」はそういう意味であろう。
応答は、つくることは観察とは異なる仕方で対象を知るための方法であり、対象と主体が相互作用ではなく相互の自律性を伴った運動の及ぼしあいであることを示す。
また、哲学者のミシェル・フーコーは「文化人類学前半の一般的問題は、自然と文化のあいだの諸関係(連続性のもの/不連続性のものどちらも含む)である」というが、これも以下のような思想に則っている。
世界が切り分けられ実体的に取り出された時モノは死んでしまう。生きるとは、世界と応答しつづける過程そのものである。世界と応答することはそれを記述することでも、表現することでもなく応えることである。
そしてこれは、先述の関係論的存在論や仏教の考えと通ずるはずである。
まとめ
・多元世界(Pluriverse)とは、多様な価値観や存在が共存することを前提とした世界観である。単一の普遍的な理論や法則を超え、異なる文化や自然観、存在のあり方をそれぞれの主体として尊重し、共生を目指す。
・「多元世界に向けたデザイン」は、現代社会が直面する課題に対し、根本的かつ持続可能な変化をもたらすトランジションデザインの一つである。このデザイン思想は、単なる方法論ではなく、態度や哲学として捉えるべきものであり、存在論的転回と「開発」から「自治」への移行という二つの方針を柱としている。
・存在論的転回とは、西洋近代の認識論的な思考に依拠した実体中心の考え方から脱却し、関係性を基盤とした存在のあり方を模索することである。人間や物質、自然といったすべての存在は孤立したものではなく、他の物事との依存によってのみ存在するという視点が必要である。
・また「開発」から「自治」への移行は、外部からの統制や一方的な成長モデルに依存するのではなく、地域やコミュニティが主体的に未来を形成するアプローチである。関係論的存在論としての存在は行為によって生まれるため、客観的アプローチではなく主観的なアプローチが必要である。
・多元世界に向けたデザインが提起する課題とその哲学的な深淵は、私たちの社会が直面している多くの問題に新たな視座を与えるものである。イリイチの「道具化」やフライの「Defuturing」はこれまでの態度が私たちに孤立と未来の破壊を生んでいるということ示している。
・元来、仏教的な哲学や愛はすべての存在が相互に依存し、関係性の中で成り立つことを示唆する。これは関係論的存在論と深く響き合う。私たちが孤立した個人として存在するのではなく、他者や自然との関わりの中で初めて存在するという認識や「創造的活動」が孤立を解消するという視点は一つ重要であろう。ただし、そのためには「配慮」「責任」「尊重」「知」が必要であり、簡単なことではない。
・文化を耕す、応答するというスタンスが重要である。それらは長期的な視点を持ちながらも、その場所の状況を敏感に感じ、愛を持って行動し続けるということである。
キーワード一覧
多元世界、一元世界、二元論、トランジションデザイン、ペースレイヤリング、存在論的転回、存在論的アプローチ、関係論的存在論、デ・カストロ、観点主義、多自然主義、ハイデガー、「存在と時間」、開発から自治へ、クロード・レヴィ=ストロース、ブリコラージュ、排除のデザイン、ヒット・エト・ヌンク、イヴァン・イリイチ、道具化、コンヴィヴィアル、Design designs、トニー・フライ、Defuturing、One-World-World(OWW)、政治存在論(Political Ontology)、家父長制、世界村と世界国家、E=mc2 特殊相対性理論、愛の生物学、フランシスコ・バレーラ、相互依存、木村敏 あいだ、Thrown Togetherness、ヤノマミ、エーリッヒ・フロム 「愛するということ」、創造的活動、配慮、責任、尊重、知、ケア、アリストテレス的二元論、逆説論理学、文化、場所と時間と共同体、ユーザーフレンドリー、倫理、ティム・インゴルド、応答(correspondence)、ミシェル・フーコー
参考資料
多元世界に向けたデザインは、ハイデガー的人類学とも言われる。
上記は難解なので、まずは感じたいという方におすすめ
「道具化」を唱えたイヴァン・イリイチの著者の解説
ブラジルの人類学者のエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ
存在論的転回について、わかりやすい流れでご説明されている記事
「存在論的転回」について詳しくご説明されている。この方は大学非常勤講師もされているようで、とても勉強になる。
実体論から関係論への「言語論的転回」について、デカルト、スピノザ、プラトン、マルクス、ニーチェ、ソシュールなどの哲学者・思想家やハンスリック、グリーンバーグ、ベラスケス、ブグロー、ダゲール、モネ、ピカソ、モンドリアン、ジョン・ケージなどの美術家・音楽家の文脈を辿っている記事で、とても興味深い。
「実体論から関係論へ~「言語論的転回」をめぐって 女子美術大学アート・デザイン表現学科」
「ブリコラージュ」を唱えたクロード・レヴィ=ストロースの著書
「Defuturing」やトニー・フライに関しての多摩美術大学情報デザイン学科 教授である久保田晃弘さんの論考
トニー・フライ本人の解説
人類学者ティム・インゴルドの「応答、しつづけよ。」
文化の視点はこちらから得た。とても面白い本。
愛と孤独について、そして西洋と東洋の根底の思想の比較はこちらから
私より簡潔にわかりやすくご説明されている記事
アマゾンで生きるヤノマミ。異なる「世界」に生きていることを映像を通じて感じることができるかもしれない。
色んな視点からデザイン人類学の必要性を記述した記事