短編『カップルプラン』
そこはお世辞にも綺麗、新しい、オシャレとは言えない簡素なホテルだったが、長崎市内の山手に立つ、窓からの景色は良さそうな立地。
すっかり暗くなった上に、慣れない坂道をずんずん進み、やっと見つけたその場所に彼はレンタカーを停めてくれた。
二人それぞれの荷物をおろす。
十時も超えるとチェックインをする人もいないのだろう。薄暗い一階ロビー、『FRONT』の照明の下。カウンターにひとり立つ男性の姿を目指した。
「いらっしゃいませ」
「すみません、予約している〇〇ですが…」
「はい、〇〇様ですね。少々お待ちください」
僕は歩き疲れた身体を一刻も早くバスタブに沈めたい思だった。
彼へ「座って待ってて」とL字に配置された、なんの変哲のない、ここが病院なら病院のような、ここがホテルならホテルのような長椅子に目配せした。宿のことはいつも僕の担当だ。
「お客様」
いつもの面倒くさい紙を書くものとばかり思い、ボールペンに手が伸びた。が、その男のトーンは違っていた。少し落ちた感じのトーン。
「はい」と答えた。彼は紙も何も出さなかった。
「お客様は『旧正月満喫!ダブルベッドで節約!シンプル素泊まりカップルプラン』でご予約を頂いておりますが、恐れ入りますがお連れ様も男性の方でいらっしゃいますよ…ね?」
「はい、そうですが」
「大変申し訳ございませんが『カップルプラン』は男女のお客様のみを対象としております。恐れ入りますが追加料金がかかってしまいますが別のプランへ変更させていただいてよろしいでしょうか?今でしたら…シングルの…おへ…や…が…おふた…つ……」
途中からよく聞こえなかった。
正直どうかなと半信半疑なところはあった。これまで『カップルプラン』なんて予約したこともなかったし、だからこそ僕はその注意事項を読み込み、それに関する記述がなかったことを入念にチェックしていた。
「すいませんがカップルとして予約をさせて頂いているので今のプランのままでいいですか?」
丁寧に答えたつもりだった。
「申し訳ございませんがお客様、規定は規定となっておりまして…」
「その規定というのはなんですか?」
「いえ、規定といいいますか、カップルプランたいうのは通常男女を想定しておりまして、今回は大変申し訳ございませんがご期待に添えませんで申し訳ございません」
こちらだって根拠はあるのだから、なるべくはっきりと、自信ありげに僕は続けた。
「私は注意事項まで読みましたが、そのような記述はありませんでした。ですからこのプランを予約したんです。すいませんがこのプランでお願いします」
「お客様、大変申し訳ございませんが当館の『カップルプラン』は男女のカップルの方もしくは”ご夫婦”の方を対象としておりまして」
「じゃあ、カップルであることを証明できればいいんですか?」
「いえ、証明があればいいということでは」
「男女のカップルでも証明を出すことなんてないですよね、じゃあ僕達も証明を出す必要もないですよね」
「いえ、ですからそういったことでは…」
僕も言いながら気付いたが『カップルであることの証明』って、何だ? 男女間でも二人が周囲に「私たちカップルでーす」と言い出したらいいわけで、それを周りは「ああ、そうですか」と認めてくれたらいいわけで。そういうのが前提だと信じ込んでいた。
まあ正直嘘だってつける。僕だって女友達と渋谷のラブホに安く泊まったことだってある。
彼が駆けつけてきた。
小さなレセプションだ。他に誰もいない。ヒートアップしだした会話は、冒頭から彼の耳にも入っていたんだろう。
「もういいよ」
「なにが」
「いいから」
「だって」
小声で話したつもりだったが、きっとこの会話だってフロントのクソ野郎とか、その裏手にいるクソ責任者とか、クソ何も考えてないバイトとか、みんなに聞こえていたかもしれない。薄ら笑いしてんだろ。
「こんな宿、泊まりたくない」
フロントに聞こえるように言い放った。
「そんな…」
彼の小さなため息のように返事をした。
時は春節。未だ早くに日が傾き始める中、華やかさが増す中華街の中で僕らは小籠包を食べ、龍の舞いを見、ランタンの赤さにはっとした。すごいね、きれいだねと何枚も写真を撮った。
こんな時期に今から他の宿が見つかるはずがない。
それにいまこの宿を去れば、『注意事項』によると当日キャンセル料がかかるし、それは僕たちが負けたということだ。と思っているのはきっと僕だけだろうが。
彼は僕の肩にポンと手をやった後、顔をフロントに向けた。
「おいくらですか?」
「シングルお二部屋のご用意で、追加料金が七千八百円になります」
僕がとっさに
「予約しておいたダブルベッドの部屋は?」
と当てつけたような声ににらみまできかせたが、彼はもう一度、次は両手で肩を掴み、そして僕の身体をフロントからこちらに向け直した。
「わかりました、支払いは今でいいですか?」
僕が「お金は…」と話し出したとき、彼はいいから、ここは俺が出しとくから、後でね、と僕を長椅子に、年寄りをいたわるように導いた。
僕は座ったまま瞳孔をハッキリと開いていた。そして大きく呼吸をした。溜息と怒り。この世の変えられない空気を思いっきり吸った。
チェックインを終えた彼は僕の荷物まで肩にかけ、真横でエレベーターのボタンを押し、そして一緒に乗り込んだ。その間もずっと僕の肩に手をかけたままだった。両手で。
部屋は離れていた。その片一方に二人で入り、僕はベッドに座らされた。
その瞬間、我慢していた嗚咽が出た。思い切り泣いた。
悔しい悔しいと繰り返していたと思う。
他にもいろんな汚い言葉を吐露してしまったと思う。
その直後にごめんごめんとも繰り返してもいたと思う。
その聞きたくもないだろうリフレインに彼はずっと耳を傾け、震える僕を見つめ、背をさすり続けながら言った。
「今夜はこっちの部屋で一緒に寝ればいいじゃない?ね?」
僕はその言葉にやっと、触れた気を少し戻せた気がした。
「ね。それいいでしょう。」
狭いよ…と僕はここにきてもなおこの宿に拒絶されたことが悔しくて、憎しみを口にしてやりたかった。
それなのに彼は、
「いいじゃない。こうして距離が近いのは。少なくとも俺はね。」
と僕をなだめた。
うつむいた顔を少し上げてみた。彼の表情は泣いても怒ってもいなかった。むしろいつものように細い目で笑顔をみせてくれた。
もう「わかった」しか出てこなくて。
彼はいつも通りだったのだ。
20年近くたって結局何が変わったんだろう。
僕はいまでも『カップルプラン』にトラウマを持っているし、本当は権利がとか、定義がとか要綱がとか言いたくない。
カップルであることの証明なんてそもそも誰も持っていないし、誰かに証明する必要なんてない。
そう強く信じていたのは僕よりもあの人の方だったと、ふとたまに思い出す。