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きぐるみのはな #1


「すきだよ」

 ぽつんと落ちた、智己(ともき)の声。そっと重ねられた手の下で、はなのこぶしが微かにこわばり、小さくふるえた。

 細長い指がくっついた、面積の広い、大きなてのひら。

 いつもみたいに握るでもなく、ただただ包み込むようにかぶさっているだけのそのてのひらを、はなは、ちらりとも見ることができなかった。

 顔をうつむけたまま、くちびるを引き結んだまま。

 暖房にあたためられた、頭がぼうっとなりそうなもったりとした空気に満たされた冬の部屋で、それとはまるでちぐはぐな、両腕にかかえこんだクッションに描かれている五月の新緑みたいな葉っぱ模様をじっと見つめていた。

 智己がいまどんな顔をしているのか、はなは知っている。

 密度の薄いやさしい眉毛をハの字に下げて、黒くてすこし小さめな瞳をさみしそうにきらめかせて、厚い下くちびるの両端をそっと持ち上げただけの、静かな微笑み。

 きっと、そう。わかっては、いるけれど。

 だからこそ、はなは顔を上げることができなかった。時間が止まったみたいに、濃い陰の落ちた両方の目を若葉の上にそそぎ続けるだけだった。


*      *      *


 智己と出会ったのは五年前、はなが十六歳の誕生日を迎えてすぐの、高校一年生の夏前のことである。

 初めてのアルバイト先として選んだファストフード店に、彼はいた。

「柳木(やなぎ)です」

 ねずみ色の味気ないロッカーが並んだスタッフルームで、智己はやわらかく微笑んでそう名乗った。

 黒いポロシャツにベージュの帽子をかぶった制服姿と穏やかそうな雰囲気から、はなは最初、彼を大学生だと思った。けれど、勤務を終えてカーテンで仕切られただけの簡素な更衣室から出てきた彼は、意外にも学生服を着ていた。

 袖に校章の刺繍がほどこされたシャツ、濃い灰色のチェック柄のスラックス――顔立ちまでいっきにあどけなくなったように見えて、ぎょっとしたはなは思わず「いくつですか」と問いかけた。

 彼はおかしそうに笑って「高二だよ」と答え、それから、「よく老けて見られるけど」と冗談めかせて付け足した。

 彼のゆるりとした言葉のリズムや優しい雰囲気は、友人たちからのんびり屋と評されることの多いはなとぴたりと合った。高校生同士ということもあり、ともに働くアルバイト仲間として、友人として、親しくなるのにそれほど時間はかからなかった。

 ふたりが付き合うにいたるまでの間に、その関係をうねらせるような大きな波は起こらなかった。

 そのせいなのか、あるいははなと智己の性格ゆえなのか。

 互いに惹かれ合ってから恋人に進展するまでに、三年という、十代の彼らにとっては長くも思える時間を必要とした。

 智己は三年生に進級してすぐに、受験勉強のために店をやめた。
 そのあとも、ふたりのメッセージのやり取りは続いていた。といっても密に連絡を取り合っていたわけではなく、時々思い出したように智己から他愛のない内容の短い文面が送られてくるばかり。
 はなが返して終わることもあれば、そこから数往復続くことも、たまにあった。

 また、予備校帰りに店に立ち寄った智己とカウンター越しに顔を合わせることもあった。

 重たそうなかばんを肩に引っかけて客として現れた智己は、いつもかならず、サイダーを注文した。

 ドリンクメニュー専用の機械から注がれる、しゅわしゅわと涼やかな音を立てる透明な液体。それを紙コップで受け止めて、トレイはいらないという彼にそのまま手渡す。

 ありがとう、とはなに微笑みを向けた智己は、お店の隅の席にひっそりと腰を下ろして、ストローをかみながら参考書とにらみ合っていた。


 翌年、智己は大学に合格し、今度ははなが、受験勉強に専念するべく店をやめた。

 英語が極端に苦手なはなは、英文科に進んだ智己にたびたび勉強を見てもらった。会う回数が増え、メッセージのやり取りも以前よりもずいぶん増えた。
 智己の説明はわかりやすく、はなが理解したことを確認してから先へ進んでくれるので、予備校で置いてきぼりをくうことの多いはなの強い助けとなっていた。

 ただ、たまにだけれど、はなでもわかるくらいに変な発音の仕方をすることがあったりもして。真剣な表情から飛びだすそれにはなが思わず笑ってしまうと、智己もまた、首を掻きながら恥ずかしそうに笑うのだった。

 智己の助けと、彼女自身の努力の甲斐あって、はなの桜は見事に咲いた。

「お祝いしないとね」

 知らせを受けた智己は、そう言って、ケーキのおいしい洒落たカフェへとはなを連れていってくれた。

 甘ずっぱいフルーツタルトを食べながら、大学生活のことや一緒に働いていた店のこと、他愛のない家族の話、いろんなことを聞き、しゃべり、和やかに話していたはなの胸のうちには、けれど、なにか焦りのような、ほのがなしい感情がぽつと生まれていた。

 ひとくぎり、ついたのだ。
 二人で会う理由が、なくなってしまう。と。

 そんな想いを抱えたままカフェを出たはなは、智己と肩を並べて、駅へと続く冬の道をゆっくり歩いた。智己も歩調を合わせてくれた。

「じゃあ、またね」
「はい、また」

 路線の違う彼と、駅の構内で短い別れの言葉を交わした。
 ほのがなしさに後ろ髪を引かれる思いで、はなが智己に背を向けた――ときだった。

「はな」

 初めて名前を呼ばれて、驚いた。

 ほかの利用客でごちゃごちゃ、ざわざわした雑音だらけの駅の中で、智己の声だけがするりと抜けて耳に届く。

「すきだよ」

 言ってすぐに、智己の頬が赤らんだ。それが耳に伸び、額に広がり、首にまで及ぶ。はなから目を逸らした彼は、真っ赤な顔を隠すように口元を手で覆ってうつむいた。

 その血のめぐりがまるで視覚から移るみたいに、はなも、自分の頬がどんどん熱くなっていくのを感じた。ぐるりと巻いていたマフラーにうずめたくちびるをもごもごと動かしてから、私も、と、消え入りそうな声で答える。

 そっと瞳を上げてみると、智己は首を掻きながらはにかむように微笑んでいた。

 こうしてふたりは、ようやくともに、最初の一歩を踏み出した。今から二年前のことである。


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