悲しみを言葉にするということ
LoRのWolrdsが終了した。
流し見ながら一応全試合視聴したけれど、ゲームの内容については要所要所で「うわあ神ゲー」という感想が出たくらいで特に何もなかった。ただ選手たちはみな賢そうでいて、ある意味で流れ着いてしまった悲しみを抱いている雰囲気が僕は好みだった。おそらくこの船はどこかで沈むのだろう。彼らは次にどこへ行き着くんだろうか。ワールド・ビヨンドだろうか。
僕はchomoshさんのnoteにはお金を払っていないので無料部分しか知らないのだけど、最近はゲームをネガティブに語るという文脈が過去のものとなりつつあるらしい。その記事の投稿の後に超ポジティブな記事を彼が出して実践していたのには笑ってしまったし、これが「良い」の語り方かと勝手に感心してしまった。
ところでネガティブを語ることを避けるのは、いまが悲しみの時代であるからじゃないかと思う。昔誰か小説家の文章にそんなことを読んだ気がする。人は悲しんでいる時に悲しみを求めず、喜んでいる時に喜びを求めない。確かに世間には悲しみがもう十分溢れているように思うし、縁遠い知り合いのだれそれに子供が生まれたというニュースが、何だかとてもいい知らせのように聞こえる。
でもそんな時代に必要なものは喜びだけかというと、実はそんなことはなくて、僕たちの抱く悲しみを言葉にしてくれる存在も、たとえ求められていなくても、必要じゃないかと思ったりもした。人はしばしば悲しんでいる時にそれを気づかないものだから。これは怒りについても同じで、だから悲しみと怒りの時代とも言えるのかもしれない。
時代、なんて呼び方は半世紀くらい古いのだろうか。youtubeでいまのJC・JKは映えを狙わない、という広告を見て、新しさと古さの混在が妙におかしかった。飾らない事実として、いま僕はテイルズオブアライズのラストダンジョンに悲しみを抱いているし、そのことはきっと言葉にしようと思う。
Wolrds、お疲れさまでした。