誠言よ、蘇れ
求められる回答ばかりを返す必要も、名誉のために偽りの優等生を演じる必要も、中身のない美辞麗句を並べる必要もない。この世で幸福に生きていくために、そんな必要はない。そんなふうに使われる言葉はかわいそうだ。
言葉は、コミュニケーションのために生まれたもので、そのために存在するのだ。言葉は、いつでも相手に何かを、想いや考えや信念や思いやりや正義を伝えるものなんだ。
誠という言葉は、既に吐き出した言葉の通りに行動することに使われているように思える。
その言葉が正しいのかも考えずに。その言葉が本心なのかも無視したままに。
それのどこが誠実なのかと、問い質したい。
言葉は、その胸のうちにある想いを宣言するものだ。それを相手へ伝えるものだ。
自分の命が想う意思があって、それを表現するために言葉があるのだ。それは声かもしれないし、文字かもしれないし、絵や映像や踊りや音楽なのかもしれない。そのどれも尊い言葉だ。
だから、言葉よ。人を縛る呪縛あることはもうやめていい。
だから、言葉よ。その原初に戻れ。人と人の間を結ぶ人間そのものであった頃へ戻れ。
言葉よ。お前こそ、想いに対して誠実な誠言に還れ。
誰もが、その命に泡ぐむ想いを、想いのままに言葉にしていいのだ。
喜びも喜びのままに、悲しみも悲しみのままに、等しく慈しんで、自分自身の命の在り方なのだと、強く強く抱きしめて大切にしていい。いや、そうするべきだ。
誰にも、自分にも偽ることはない。そのありのままに、自分を大切にして、自分を信じて、そして自分のいる世界を心から賛美しよう。
その想いを言葉にすることが、誠言なのだ。
その想いが未だ言葉としてこの世にないのなら、それを未言として生み出せばいいんだ。愛が結ばれて君が生まれたように。
君の命が、なにかに触れて感じた想いを、未言として生み落そう。
そしてその涌き立つような喜びを、こぼれるような悲しみを、大切な人へ伝えよう。
言葉の力を信じるとは、人間性の力を信じるということなのだ。
わたしは、人の誠言の尊さを信じている。