日常と非日常
職場の人間関係からメンタルを病んでしまい仕事を休んでいる身です。こうやって記事を投稿すると、View数やレスなどから世の中に同じ境遇にある方があまりに多いことがよくわかります。
職場でのやりとりがメールからチャットになり、ほぼ会話のようにテキスト文字が飛び交います。リアルタイムなので、生産性や効率、コストという点でも大変有効なツールだと思います。ただ一方で、心無い言葉がテキストになると、会話から発せられる目に見えない言葉以上に心身に影響を与えるように感じます。SNS上の誹謗中傷で感じる痛みと同じです。自分のストレス耐性が弱かったというのは否めませんが、見下され、会社で仲間に使うべきでないような言葉を使われ、グループチャットで晒しものにされ、これでもかというような追い込みが長く続き、私はそれにやられました。
さて、閑話休題。タイトルにある「日常」と「非日常」についてですが、健康な状態で仕事をしていると、やはり日々同じルーティンを繰り返しているよりも、普段と違うことをしてみたり、違う道を歩いてみたり、違う人と話をしてみたり、違う人と食事や飲みに行ったり、いつもの趣向とは異なった本を手に取って読んでみたりと、「非日常」を体感してみたい気に駆られます。それは、仕事上でも新しい発想を取り入れる目的でもあったり、平々凡々な自身の日常に刺激を与えて、AHA体験をしてみたいという欲からなのだと思います。確かに、普段と(日常)と違うことにチャレンジすると、新しい発見や出会いがあり、気持ちも思考も豊かになることが多いように思います。
ただ、今の状態のように十分に精神的に健康な状態でないときに思うことは、特段変化もないけれど、ある意味平々凡々な「日常」がいかに幸せだったのかを身に沁みて感じます。
小さな幸せ、小さな変化、小さな成果、適度な刺激、要は小さな一歩の積み重ねが大事なんだなって。
もっと稼ぎがほしい、もっと高い地位に立ちたい、もっと美しくなりたい、もっと大きい家に住みたい、もっといい車に乗りたい等々、人の欲望はエンドレスなのだと思います。私自身もどこかでこれらのような欲望に支配されていた時もあったりしました。でも、振り返ってみると、最愛の妻が健康で、自身も病気もなく健康で、二人の子供たちも無事独立して幸せに暮らしていて、自分には住む家があって、立派な経営理念をもつ企業で働かせてもらっていて、生活するには十分な収入が得られて、三食のごはんが食べられて、仲の良い友達もそれなりにいて、と何も不満なんてなくて十分に幸せだったのだと改めて思い返します。
こうやって社会から遠く離れたところで孤立していると本当に思います。「非日常」なんていらない。平々凡々な「日常」って十分幸せだってことを。
早く「日常」に戻りたい。