【オトナになることのうた】H2O●大人の階段を昇る少女「想い出がいっぱい」
このところは、オアシス展を興奮しながら観たり!
名古屋に日帰りでイエモンを観に行ったり! していました。
名古屋お土産は吉芋花火と、ゆかりせんべい。でした。
大谷さんのドジャースはワールドシリーズ制覇おめでとうございます。
最終戦のヤンキースの乱れっぷりには大一番特有の雰囲気を感じましたね(仕事の手を休めつつテレビ観戦)。
そしてNPBでは、横浜DeNAベイスターズが日本一に。下剋上、おめでとう。来年は見ておれよ~。
ではでは。今回は「想い出がいっぱい」について。
男性デュオのH2O、最大のヒット曲「想い出がいっぱい」
80年代の前半に活躍したデュオ、H2O(エイチツーオー)。彼らと言えば、「想い出がいっぱい」である。
と、ここで同曲のリンクを入れようと思ったのだが。なんとH2Oの作品は、公式の動画も、楽曲のサブスク配信も、まったくされていない。これには驚いた。
ということで今回はこの曲のオリジナルではなく、さまざまなシンガーがカバーしたバージョンをはさみながら進めていこうと思う。
一番最初は、そのH2Oのメンバーであるなかざわけんじ(中沢堅二)のセルフカバーから。
さて。このnote【オトナになることのうた】は、若者から大人になること、大人へとなっていくことを唄った曲について書いていこうと思っている。
そして「想い出がいっぱい」は、そのテーマに沿った曲のうちのひとつ。僕は【オトナになることのうた】の構想の中で、この歌が頭の片隅にあった。といっても、そんなに思い入れが強いわけでもなく(申し訳ない)、ただ、一般的にそうした歌を思い浮かべると、必ず入り込んでくる曲だったのである。
H2Oは、この歌を出す数年前に薬師丸ひろ子主演の映画『翔んだカップル』(1980年)の挿入歌「ローレライ」でデビューしている。さらに続くシングル「僕等のダイアリー」はテレビドラマのほうの『翔んだカップル』(同年)のエンディング曲。
そうして活動を続けていた彼らは、やがて「想い出がいっぱい」という曲を手にする。こちらはテレビアニメ『みゆき』のエンディング曲。とにかく青春ストーリーのタイアップを持ち込まれていたようだ。
その結果、「想い出がいっぱい」はH2Oのレパートリーの中で突出して知られる曲となった。当時のセールスチャートで最高6位にまで上昇している。
そもそもアニメ『みゆき』の原作は、あだち充によるマンガ。あだちと言えば『タッチ』が有名だが、その前から描いていた『みゆき』もかなりの人気作だった。僕はあの当時『少年ビッグコミック』を読んでいたので、そちらで連載していた『みゆき』には親しみがあったくらいである。ちなみにあだち充の存在は、その時期に兄のマンガ家・あだち勉と一緒に認識した。
僕の高校の同級生だったミキヤくんはアニメの『みゆき』にかなり入れ込んでいて、「俺はみゆきという名前の彼女を作る!」と豪語していた。ミキヤくん、あれから元気にしているだろうか。
ただH2Oは自作曲もちゃんと書いていたコンビだったが、シングルになった曲は職業作家によって作られたものがメインだった。つまり制作スタッフ側には、彼らだけで書いた作品ではヒットチャートには通用しづらいと考えられていたのだろう。
それは「想い出がいっぱい」においてもそうで、この歌の作詞は阿木燿子、作曲は鈴木キサブロー。同じシングル盤のカップリング「10(テン)%の雨予報」(『みゆき』のオープニング曲)もこの組み合わせだった。
そう、この歌の作詞は阿木燿子なのだ。この人について僕は、【年齢のうた】の山口百恵の回で幾度か書いている。
さて、「想い出がいっぱい」の歌詞。ここではずっと、男の子の目から見た女の子に対する気持ちが綴られている。
歌の中で最も印象深いのは、やはり一番のサビの<大人の階段昇る君はまだシンデレラさ>の箇所だろう。
主人公の男の子は、おそらく女の子よりも年上、もしくは、せいぜい同い年。彼女に思いを寄せながら、その子の未来を、将来のことをひたすら考えている。そう、今はシンデレラであるその子が、大人になった時のことを。
これは『みゆき』のストーリーとつながる部分もあるが、同一ではなく、かなり膨らませられている部分がある。このへんは阿木燿子のクリエイティビティなのだろう。
ちなみに「想い出がいっぱい」がリリースされた1983年3月時点で、H2Oのふたりは25歳。かたや詞を書いた阿木燿子は37歳である。先ほど述べたように、阿木はすでに70年代から山口百恵をはじめ数々のヒットソングを世に送り出していた大御所だった。
そんな彼女が、自分よりはるか年下である少年の心を想像しながら、その男子が少女への思いを募らせる歌を書いたのである。
アニソン、青春ソング、そして卒業ソングの名曲
ところで「想い出がいっぱい」にはかなり特徴的に感じるところがある。
まずこの歌はアニメソングで、その中でも名曲だと認識されている。その上、紛れもなく青春を唄った曲であり、さらに卒業ソングの名曲だと捉えられていることだ。
たとえば以下は今年の春に発表された、楽天ブックスが集計した「年代別 思い出の卒業ソングランキング」。「想い出がいっぱい」は40代で6位、50代で8位に入っている。
また、次はちょっと翻って、2016年のU-SENの調査による「思い出の卒業ソング」。
ここで「想い出がいっぱい」は、「青春の甘酸っぱさを感じる正統派の卒業ソングとして今でも人気」とされている。
それから今度は、こちらの譜面のサイトでの同曲の説明。
「大人の階段登る~」というフレーズはあまりにも有名です。CMソングやカバー曲として今もなお耳にすることが多いこの曲は、合唱曲としても定着しており、中学・高校の合唱コンクールや卒業式でよく歌われています。
このように「想い出がいっぱい」は、青春時代を送る学生たちの合唱曲としても定着しているようだ。
しかし歌をよく聴くと、こうした印象はやや不思議にも思えてくる。
なぜならこの曲の主体は、彼女のことをまるでシンデレラのような子だと思いながら見つめている男の子だ。彼が、この女の子はやがて将来は大人になり、少女だった自分を思い出すだろうと考え、想像を巡らせている。つまり女の子の未来を、男の側が勝手に妄想しているストーリーなのである。
歌を最後まで聴いても、女の子自身はけなげに生きているだけ。そしてそこで彼女は、何も卒業していない。
主人公によれば、このシンデレラは硝子の階段も降りようとしてはいる。が、実際のその時はまだ訪れていない。現在は、それが今後やがて来るだろうという段階。男の子が妄想する、彼女が自分の思い出を思い出すような時点に到達するのは、まだまだ先の話なのである。
それなのにこの歌が卒業ソングとして認識されているのは面白い。これにはおそらくメロディに漂う青春的な青さや繊細な味わいが影響していて、その透明感が<大人の階段昇る>のところを起点に、曲のイマジネーションを増幅させているのではないだろうか。
そうしてみると阿木燿子はこの歌に「大人の階段昇る」という言葉をよくぞ与えたものだと思う。もっともこれは歌詞なので、意味合いとしては、正確には「大人への階段」ということだろう。
思えば阿木は、山口百恵という巨大な才能を秘めた少女が大人への階段を、それもかなり足早に昇っていったドラマを見届けながら、その創作面で多大な力を貸した人である。そのことを思えば、百恵よりグッと普遍的な「少女が大人へ」という成長の道筋や、その姿を妄想たっぷりで見つめる少年の心など、くすぐったいくらい甘酸っぱいものだったはずだ。
そうした要素がメロディとサウンドのポップな味わいと一体になり、見事な楽曲に昇華されている。
なおこの歌は、この2020年代になっても、歌詞に合わせたような自動車保険のCMが作られていたほど。このCMで流れていたのは香川照之が唄う「想い出がいっぱい」だったようだ(CM動画のリンクは公式には消えているようなので、自粛)。
こうして「想い出がいっぱい」を聴き直すと、発見がいくつもあった。
少女が大人に。あるいは、少年が大人に。このテーマは、ポップ・ミュージック、さらにはポップ・カルチャーの世界において、非常に普遍的で、今も昔も描かれてきたものである。
その成長を、階段を昇るという言い方で表現することも、じつに明快で、象徴的で、またフレンドリーだ。
当【オトナになることのうた】では、そうした楽曲やアーティスト、そしてその向こう側にある背景などを書いていこうと思っている。
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