【年齢のうた】山口百恵 その4 ●アルバム『百恵自身』で唄った「十八才の私自身」
前回は、秋川渓谷に行った日の夜に書いたんですが。
当夜はここからちょっと離れたところで一泊しまして。翌日は瑞穂町という町へ赴いて、大滝詠一巡りをしてきました。
といっても、彼のコーナーが設営されている同町の図書館に行き、その後はかつてスタジオ兼自宅があったとされる地域を歩いただけなので、まあ聖地巡礼とまではいかなかったですけど。
僕個人は、大滝詠一の音楽に深く浸ってきたほどではありませんが、山口百恵同様、数年前に掘り下げる機会があり、それから関心を高めていました。
で、今回は急に時間ができたので秋川渓谷を訪れたんですが、その道中で、この地域は福生が……横田基地が近いことに気づき、それはつまり大滝さんがスタジオを構えていた土地であると思ったのです。
さらにあとで思い出したのですが、そもそも秋川渓谷に意識があったのは、数年前にロットバルトバロンがあそこでライヴをやったと聞いたこともちょっと影響があったかもしれない(厳密には秋川渓谷から少し離れたキャンプ場でしたが)。
で、大滝詠一巡りを決めた時に、最近誰かと大滝さんの話をしたよなぁと思ったら、アジカンのインタビューの席で後藤正文くんが触れてたのでした。
突然決めた小旅行だったので、何かと及ばぬ点が多く……たとえば当日の移動中になんとか予約できたホテルが驚くほど昭和すぎて参ったとか。
それこそ大滝さんのお墓など、ゆかりの場所にさほど行けなかったとか。
箱根ヶ崎駅から東福生駅まで歩いたら、炎天下で70分もかかったとか。
そうです、「福生ストラット」を脳内再生しながら歩き回るも、帰りは東福生駅からでした。
あと、ジョイフル本田に寄ったけど、ろくな買い物をしなかったとか。ですね。
ただ、わずかな時間でしたが、自分単独ではほんとに何年ぶりかの外泊で、それなりに感じるところが多かったです。
そして無事に帰宅でき、1日半ぶりに家族が集結できて良かった良かった。です。
ただ、その夜に聞いたPANTAの訃報は悲しかったですね……。自分が若い頃から好きだったし、過去に、ほんの少しですが、共にお仕事で関わったこともありました。あの世でもロックし続けてほしい。ご冥福をお祈りします。
大滝詠一は、山口百恵に1曲ほど作曲していますね。
この歌のモデルであるメリーゴーランドのカルーセル(=回転木馬)エルドラドは、元はニューヨークのコニーアイランドにあったものです。それは1971年に東京の「としまえん」に移設されましたが、同園は2020年の夏限りで閉園。ただ、このメリーゴーランドはどこかに保管されているようです。
山口百恵の4回目は、あの曲の話からです。
17才で唄った「横須賀ストーリー」から私小説的スタイルは新段階に突入
阿木燿子と宇崎竜童のコンビが書いた最初の大ヒットシングルは「横須賀ストーリー」。1976年6月、百恵が17才の時のこの曲は、彼女のキャリアにおいて非常に重要な作品となった。
別れの瞬間が迫る心情を唄ったこの曲は、それまでのシングルのセールスを大きく上回るヒットを記録。サビから始まる構成も、その百恵の唄いっぷりも、インパクト大であった。
そもそも横須賀という街は、彼女が小学生から中学生までの間に過ごしたところであり、また作詞を手がけた阿木にとっては両親が住む場所だった。
つまりここには、かなりの割合で、唄い手のリアルさが内在している。
そのサビ頭のメロディはパワフルで圧倒的。そして歌にあるのは、別れが迫るせつなさや苦み、諦めきれない思い。その舞台が、横須賀という港町なのである。
百恵はのちの著書『蒼い時』(1980年)の最初の章で、こう記している。
私の原点は、あの街--横須賀。
この歌で百恵はシンガーとして大きな前進を見せたと思う。今まで書いてきたように、酒井政利プロデューサーによって「私小説的」であるとされる年齢を入れた歌やアルバムを多数リリースし、その時々の彼女のリアルな感覚がのぞくような歌を多数唄ってきた。それがデビュー以来の3年間だった。
その歩みが「横須賀ストーリー」によって新しい段階に進んだ。もちろんここにもフィクションの色合いはあるものの、実際に生活を送った街を舞台にしたドラマツルギーのリアル度は、その時々の実年齢で歌の舞台設定を近づけたどころの話ではない。この歌が喚起する情景や百恵自身のエモーションの入り込み方は、もはや別ものだ。
ここで彼女における私小説的な歌の意味合いは変貌した。それはシンガーとして大きな一歩を踏み出したことを意味する。
こうしたリアルと、作家を含めた創作とのバランスの変化は、百恵の歌の方向性を発展させていった。現実を強く感じさせる歌はより鋭く、繊細に、シリアスに、また力強くもなった。かと思えばファンタジックな世界や、まるで何かのドラマを演じるようなものもあったりと、その舞台や表現される感情はさらに巨大なものになっていった。この後者については映画やドラマに出演してきたことの好影響もあったのではないかと考える。
中期以降の百恵の歌が表現する世界の広がりは、まったく末恐ろしいほどだ。それは歌謡曲だと、たしかにひとことでポンと言ってしまえる言葉ではある。しかしこの時期の彼女の諸作は、ヒットチャートを舞台にしながら、その歌謡曲の可能性と創造性を極限まで追求しているかのようにさえ思える。
こうなると実際の百恵の年齢は、そこまで大した事実ではないように思えてくる。いや、もちろんそんなわけはないし、このあとに書くように、そうした楽曲も出てくる。ただ、この頃になると自分のリアル(もしくはリアルと思わせる歌詞)を唄うことは全体の何%かで、ほかではどんなドラマチックな歌でもその主人公に憑依したり、どんな荒唐無稽な設定でもそれに同化して唄うほどの能力を身に着けていったのだから。
12才から18才まで…少女の成長を唄った「いた・せくすありす」
そして1977年5月、18才の時にリリースした『百恵白書』には、よりリアルな彼女の像が目に浮かぶような曲が集まっている。
本作の歌詞カードには、百恵の字でこんな言葉が綴られている。
このアルバム用の詩を 書いていただくために
阿木燿子さんと 現在の私についてとか 夢…
十八年間 今までの人生について…
そんな事を長い長い時間 お話ししました
(中略)
これが私の青春…十八才の私自身です
(以下略)
あえてシングル曲を収録せず、コンセプトアルバムとして制作された本作は、百恵の個性を追求するために、彼女のリアルさを描いたものとなっている。そう、18才時点での。
ここにはたしかに18才らしい若さを感じさせる局面もある。その一方で、ちょっと大人のイメージが湧く歌もある。たとえば「鏡の中のある日」や「ミス・ディオール」のように。このへんの曲は、曲調もあるだろうが、おそらく今の18才の感覚からすると、だいぶアダルトではないだろうか。
ただ、そのことには……その早熟さには、納得がいく。ここまでの18年間で、百恵は公私ともに、あまりに多くのことを経験し、あまりにたくさんの場数を踏んだ。
この頃の彼女は、年齢的には少女ではあったが、すでに大人の女としての横顔も見せようとしていたのだと思う。
それにこの当時、70年代は、歌手でも、政治家でもスポーツ選手でも……有名人を思い浮かべると、かなり大人だった覚えがある。自分の親世代でも、上の世代の人たちを思っても、そうだ。
そこにはおそらく時代背景というものがあるのだろう。昔の人は、今の時代より、うんと早く大人になるように促され、うんと早く大人になるような道を作られ、さまざまな形ではあるとしても、実際にうんと早く大人になっていったのだと思う。そこが現代とは、大きく異なる。
アルバム『百恵白書』の中で最も驚くのは「いた・せくすありす」である。これは当時の百恵のリアルな年齢が唄い込まれた歌でもある。
タイトルの通り、少女の成長というテーマを掲げた阿木燿子は、12才から18才にかけての百恵の心理を描いている。ふたりで話をして完成した歌詞とのことだ。
そして宇崎竜童による、抑制しながらも大胆な唄い方を引き出し、高まりを見せていくメロディ。
圧倒される。まさに私小説だ。
さらにレコードではB面の1曲目にあたるところに置かれた「二十歳前夜」。年上の彼の行動が理解できず、仲を続けていいものかどうかという複雑な思いを唄っている。しかしカントリーの匂いもあり、こちらはそこまで深刻にならずに聴ける曲でもある。
そしてこれは、まだ18才の段階なのに、すでに20才という年齢を気にしていることがわかるタイトルである。そういう意味では、70年代当時の若者の二十歳、ハタチという大人になることへの意識が伝わってくるかのような歌だ。
(山口百恵 その5 に続く)
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