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躁うつ歴20年毒親サバイバー 暇なので自分の人生を振り返ってみる

年末年始に実家に帰らないと、こんなにも心穏やかに過ごせるのかと実感しています。
我が家で猛威を振るっていたインフルもピークを過ぎ、私は奇跡的に感染せず今に至ります。

おでかけもできず、暇なので生育歴、病気になった経緯や、病気と共にどうやって生きてきたのかを書いておこうかなと思います。


はじめに


私はいわゆる躁鬱病です。少し前まで双極性障害といわれ、今は双極症に名称が変わりました。
この病気は完治することは基本なく、一生付き合っていく病気になります。でも、薬を飲みながら普通に暮らすことはできます。

私はこの病気になってから20年ですが、日常生活が困難な状態だったのは、そのうちの半分くらいです。特に子どもを産んでからの10年が鬱状態がひどくて特に大変でした。

最初に飲んでいたお薬がリーマスで妊娠が禁忌だったので、途中断薬して薬を飲まずに過ごした時期が2年くらいあります。結局、産後に再発したのですが、出産していなければ薬を飲まずに過ごせていたのかもしれません。

この病気になった初めの頃、主治医の先生に「子どもを持つという選択をしたら、もう持たないという選択はできないんですよ」と言われたことがあります。その当時はぼんやりとしかわかってなかったのですが、子どもを産んでから、この言葉を何度も何度も思い出しました。
私の選択が正しかったのかは今でもよくわかりません。子どもにとって良い母親ではなかったので。

ただ今の私にとっては、子どもと過ごせる日々がなにものにもかえがたい喜びです。とても幸福なことだなとも思います。そう思えるようになったのもこの2年くらいですが。子どもは今のところすくすくと元気に育ってくれてます。
希死念慮に苛まれた日もありましたが、生きていて良かったなと心から思います。

病名がつく前から躁鬱の気があったので、家族構成と幼少期から振り返っていこうと思います。

家族について

母親

短大を出たあと、小学校の先生になる。父と結婚した後も仕事を続け、私が2歳になる前に退職する。世間体的にいい母親でいることにアイデンティティを見出し、子どもをその駒として育てる。いい子でいることを強要する。
衣食住の世話はするが、スキンシップはいっさいなかった。ヒステリックに怒鳴ったり叩いたりをよくしていた。
ステージ4のガンになり告知されるが、自分はガンではないと言い張る。そのおかげか奇跡的に完治する。思い込みが激しく、現実を直視しない。

父親

大学卒業と同時に母と結婚する。
子どものまま大人になったような人で、文字通り仕事以外何もできない。子どもに無関心で親としてはまったく機能しなかったが無害。ただ、父だけなら確実にネグレクトされていたと思う。

私の5歳下。中学一年生から不登校で、家庭内暴力がひどく攻撃的。高校、大学にはなんとか行くも精神的に不安定。母親とは共依存関係。大学卒業後、結婚するも今年の夏に離婚。今は実家で両親と同居している。母が抗がん剤で弱っている時にも罵詈雑言を浴びせる。病院に行くのを嫌がるが、おそらくパーソナリティ障害。


幼少期

両家ともの初孫として産まれ、親戚には蝶よ花よとかわいがられる。また、母が退職する2歳までは近所の老夫婦が面倒をみてくれていた。
3歳の時に団地に引っ越す。母は趣味に没頭し、放置される。この頃、よく怪我をしていて、今でも傷や火傷のあとが数箇所残っている。全部私のせいだと言われているが、真実は藪の中。

小学生

低学年

新しいマンションに引っ越しする。母はあいかわらず趣味や近所のママ友とのお茶会などに忙しくしていた。妹はまだ幼かったが、やはり放置されていた。この頃から記憶があるが、ヒステリックに怒鳴られ、平手で頬を叩かれたりしていた。

私は「銀河鉄道999」のメーテルにはまり、空想の世界に現実逃避するようになる。今思えば、鉄郎がメーテルに母親の面影を見ていたように、私もメーテルに優しい母親像を求めていたのかもしれない。

スキンシップがまったくなかったので、タオルケットが心の拠り所になる。まさにライナスの毛布。爪噛み、頻尿など問題行動も出ていたが無視される。

世間的にいい子であることを求められ、テストは100点以外は認められず。和を乱さないことも求められ、友達とケンカして私に非がなくても謝ることを強要される。人権は無視される。

高学年

思春期に入り、自分の家庭が普通でないことに気づく。母から父の悪口を聞かされていたので、父に対して不満を持つようになる。
この頃から友達関係が難しくなり、ひたすら空気を読むようになる。生きづらくなる。

中学生

学校での人間関係がうまくいかず、精神的に不安定になる。希死念慮が出てくる。母の中に子どもが登校拒否をするという選択肢はなかったので、家に居場所がなく、学校に行くか死ぬしかなかった。何度か首を紐で絞めたりするも死ぬ勇気がなく、学校にはなんとか行った。

高校生

偏差値が高めの高校に行く。この頃から躁鬱の気が出てきて、躁状態の時に部活の部長をしたり、交換留学のホームステイ先になったりする。反動で鬱状態になり、学校を休むようになる。単位ギリギリで留年せずにすんだが、今でも単位を落とす夢をみる。

高三の時、妹が登校拒否になり、家庭内が地獄と化す。とても、受験勉強ができる状態ではなく、とりあえず卒業することを目標にする。
クラスメイトが自ら命を絶ったこともあり、その選択には異を唱えられなかった。進学も就職もしない生徒は私だけだったが、無事卒業はできる。

浪人時代

妹の家庭内暴力がひどく、祖母の家に避難したりして、受験勉強をする。有名大学に行くことを条件に一人暮らしすることが許される。
一日10時間以上勉強するも、当時、兵庫県に住んでいたので、阪神大震災で被災し、勉強どころではなくなる。受験はなんとかできたものの、関東の大学はことごとく落ち、京都の大学には受かる。通えなくもなかったが、なんとか一人暮らしさせてもらえる。
抜毛症になり、頭頂部が禿げる。

大学生

今思えば、入学当初は躁状態で、夏休みに短期留学を申し込んだりするも、夏前に鬱状態になりキャンセル。夏休みに寝込む。後期までに回復し、なんとか大学には通える。妹の勉強をみるために毎週実家に帰らされる。

文学部の心理学科に所属していたが、理系並みに実験やレポートを提出するハードな内容でついていけず、途中で社会学部に転部する。卒論を書かずに卒業する。

就職活動をする時期に鬱状態になり、就職活動はせずに過ごす。その後、保育士の国家資格を取る。年度末にあった試験に受かり、実家の近くの公立の保育所で働くことになる。

保育所時代

0歳児担当になるも、実習せずに担任を持つことになったので、精神的負担が大きかった。また先輩保育士が0歳児に幼児にするようなしつけをする人で、私にも当たりがきつく、メンタルをやられる。しかし、仕事をしないと家にいる資格がなく、なんとか休まずに行く。
当時付き合っていた今の夫が転勤になったこともあり、一年で寿退社する。

結婚後

遠方に住むことになり、晴れて自由の身になる。しかし、自分だけ幸せになる負い目もあって、電話で毎日のように母の愚痴を聞くようになる。
妹は相変わらず荒れていたので、夫の出張の時は実家に帰って母のサポートをしたりする。

フルタイムで働く自信がなかったので、パートでベビーシッターをしたり、絵本と木のおもちゃの店で働いたり、図書館で働く。

子どもがなかなかできなかったので、不妊治療もするようになる。まわりの友達が次々に子どもができ、辛くなってきたので一旦治療をやめる。
何かしなければいけないと思い、保育所のフルタイムの臨時職員として働く。臨時職員だったが、正規職員と同じ働きを求められ、家事との両立も負担が大きく心身が疲弊し、だんだん眠れなくなる。そのうち、まったく眠れなくなり、心療内科を受診する。鬱病と診断され退職する。

鬱病から躁鬱病に

鬱病と診断され、睡眠薬と抗うつ剤を飲む。重力が倍以上かかっているような感覚になり、起き上がれなくなる。夫は何も言わなかったが、母に家事ぐらいしなくてはいけないと言われ、泣きながら掃除機をかけたり、料理を作る。

なぜか母が車で迎えにきて、薬を飲むことを禁じ、親戚の農家に連れていかれ、農作業をさせられる。当然のように眠れなくなり、病状は悪化する。

その後、家で薬を飲んで寝て過ごす。あまり記憶がない。数ヶ月で起き上がれるようになる。カウンセリングを受けたくて、公共のカウンセリングを調べて受けに行く。回数が決まっていたので、カウンセリングを併設している病院を紹介してもらい、その病院に通うようになる。

普通、躁鬱病は最初鬱病と診断されることが多く、躁鬱病と判明するまで数年かかったりするが、紹介してもらった先生はベテランのおじいちゃん先生で、すぐに躁鬱病だと見抜いてくれる。前の病院では話はろくに聞いてもらえなかったが、この先生はしっかり話を聞いてくれて、とても良い先生だった。リーマスとレキソタンを処方される。カウンセリングも週一で通うようになる。

自分の中にも精神病に対する偏見があり、自立支援や障害者手帳は申請しなかった。後に、障害者年金が受けれる病状だったと言われる。

回復するも軽躁を繰り返す

日常生活が普通に送れるようになり、また図書館などで働くようになる。ただ、躁状態と鬱状態を繰り返すようになり、散財したり、ライブにはまり遠征に行きまくったりする。働いていた時の貯金はこの時にすべて使い切った。また、躁状態の時は寝なくても食べなくても平気で、鬱状態の時は逆に過食になり、体重が10キロ単位で増減した。
ただ、投薬とカウンセリングのおかげか、鬱状態の時も寝込むことはなく、パートの仕事は続けていられた。また、元気になると母の愚痴を聞くようになる。

おじいちゃん先生に「低め安定が大事ですよ」と言われるが、躁状態の多幸感を知ってしまうと低め安定の時が辛く、躁状態の時が普通なのではと思ってしまう。躁状態の後は必ず鬱になるのに、いまだにその考えから抜け出せないし、コントロールもできない。ただ、波は小さくはなってくる。

母が癌になる

母が癌になり、毎週看病に行くようになる。妹もその頃には結婚していて、交代で看病するも、必ずキレて母は罵倒されていた。
今思えば、躁状態でこの時期を乗り切っていた気がする。なので、家に帰るとぐったりして、夫に当たるようになる。

地方に転勤になる

実家からかなり遠い地方に転勤になる。母は抗がん剤は続いていたものの、再発はせず自宅療養していた。妹は実家に近かったので、看病に行くも、自分がしたぶん私にもしろとキレる。
なかなか看病に行けなくなったので、母には毎日電話して、カウンセリングのように話を聞くようになる。自分がカウンセリングを受けながら母のカウンセリングをする状態が妊娠するまで続く。

病院はカウンセリングのあるところを紹介してもらい、週一でそこに通う。薬はリーマスのみになる。

転勤先の自治体の図書館で働くには司書資格が必要だったので、近くの大学の司書講座に一夏通い資格を取る。また、図書館で働くようになる。パートなので、責任はほとんどなく、貸し出しや配架など単純作業で自分にはとても合っていた。

東日本大震災が起こり、いろいろ考えさせられ、やはり子どもがほしいと思い、断薬して不妊治療するようになる。主治医と相談しつつ半年ほどかけて断薬する。一応、通院、カウンセリングとも卒業の形に。その約一年後に無事妊娠する。

妊娠中

つわりがひどく寝て過ごす。母は完治していたが、妹からの嫌がらせを受けており、妊娠中も母の愚痴を聞くことになる。しかも、もっと妹に気をつかえと言われる。つわりも長引き、精神的にも不安定な日々を過ごす。

産後に再発する恐れがあるので、妊娠中に保健師さんなどに相談する。また、親業の講座を受けに行く。世間体的に里帰り出産を母から勧められるものの、妹の妨害を受けそうで恐ろしくてできず。本当は母のサポートは受けず、外部委託しよしようか迷っていたが、世間体が悪いので却下される。

出産、そして再発

0歳

無事産まれるも躁状態になり、眠れなくなる。
母乳をあげたかったので、薬を飲まずになんとか過ごす。赤ちゃんはお腹の中にいる時に私が不安定だったからか、よく泣きなかなか寝ない子だった。夜も何度も起き、保健師さんからも大変な赤ちゃんだねと言われる。

母は家には来たが、積極的に孫には関わらず、持ってきた韓ドラのDVDを見ていた。家事はしてくれたが、母乳のために魚料理をお願いするも、夫のために肉料理を作る。妹からの嫌がらせの電話も毎日くるので、早々に帰ってもらう。

精神的に不安定になり、夫とケンカするようになる。子どもはかわいかったが、お世話をするのに必死で、当たり前だが楽しむ余裕はなかった。離乳食が始まり、マルチタスクに対応できなくなり、ほとんど眠れなくなる。
病院を受診し断乳して、睡眠薬とラミクタール25mg1錠を飲むようになる。睡眠薬で眠れるようになり、心身ともにだいぶ楽になる。

子どものためになりふりかまっていられないので、自立支援と障害者手帳を申請する。

保育所時代に赤ちゃんのお世話はしてたので、それなりに対応はできた。ただ、本当に寝ないし、よく泣く子だったので、日中はずっとスリングに入れたまま家事をしたり、抱っこ紐で過ごす。一歳までは離乳食もよく食べ、まだ歩けなかったので、成長を楽しむ余裕が出てくる。

妊婦の時から市の講座に参加して、ママ友を作り、出産後も交流する。育児サークルにも行き、なるべく家にこもらないように過ごす。ベビーマッサージを習い、毎日するようになる。

一歳

歩けるようになり、目が離せなくなる。離乳食も好き嫌いが出てきて食べなくなり、育児を楽しむ余裕がなくなる。毎日、晴れた日は公園か、近くの河原に散歩に行ったり、子育て支援センターや子育てサロンに行き、なるべく外で過ごすようにする。

心身ともに疲弊し、土日は夫にみてもらったが、精神的にかなり不安定になり、日々泣きながら過ごすようになる。しかし、家事育児は無理して頑張っていたので、産後みるみる痩せ、この時人生で1番体重が軽くなる。ラミクタール25mgが2錠に増える。睡眠薬のかわりにレキソタンを処方してもらう。眠りは子どもも私も浅いので、夜中に何度も目が覚めるが、細切れで寝る。

子どもは寝ないし食べないし、私の状態もかなり不安定だったので、自分で育てることに限界を感じ、迷った末に保育園に預けることにする。障害者手帳を持っていると優先的に入所できるので、第二希望の園に預けることができた。

二歳

人見知りが激しく、母親から離れない子だったので心配したが、意外とすんなり保育園生活になじむ。お昼寝も園ではまわりの子がするからか、布団でちゃんと寝るようになる。給食は相変わらず食べなかったが、少しずつ食べられるものが増えていく。トイレトレーニングもほぼほぼ園でしてもらう。

私は自分の時間が持てるようになるが、今まで頑張ってきた反動で鬱状態になって、逆に動けなくなる。また、イヤイヤ期が始まり、子どもにイライラするようになる。
子どもが保育園に行ってる間に家事はなんとかこなす。でも、育児がまったくできなくなる。イライラして怒ってしまうので、平日は保育園、土日はなるべく夫にみてもらって過ごす。

カウンセリングを受ける時間ができ、再び週一で通うようになる。しんどい気持ちをひたすら聞いてもらう。母親失格だし、子どもに申し訳ない気持ちで押しつぶされそうだったが、カウンセリングのおかげで、なんとか生き延びる。

三歳以降

子どもはHSC(生まれつき、敏感で繊細、感受性が高い気質を持つ子ども)だったが、保育園の先生に恵まれ、愛情豊かに適切に対応してもらう。

私は相変わらず鬱状態で、一緒に遊ぶことはできなかったが、絵本の読み聞かせは毎日する。
木のおもちゃのお店で働いていたので、成長に合わせたおもちゃを購入し、それで遊んでもらう。子どもはとても寂しかったと思う。
ヒステリックに怒ることもあったので、スキンシップを必要以上に求めてくるようになる。なるべく応えるようにし、夜よく寝れるように寝る前にマッサージもするようになる。これは小学生3年生まで続ける。

保育園と夫のおかげで、なんとか日常生活がこなせるようになるが、たびたび実家から荷物が送られ、そのたびに不安定になる。
鬱状態なので、物理的にも荷物を解くのが難しく、荷物を送らないでほしいし、連絡もしないでほしいと伝えるが聞いてもらえず。

母からはたびたび帰省の要請をされる。子どもにとっても祖父母との交流も必要なのかと思い、頑張ってお盆とお正月は帰省するが、そのたびに状態が悪化し、寝込むことになる。
帰省しても、母は1日で孫に飽きて、関わることはほとんどしなかった。世間体的に孫が帰省してるアピールがしたかったのか。

就学前

保育園では、基本9時5時で預かってもらっていたので、小学校になった時に子どもと一緒に過ごせるか不安になる。最初は半日で帰ってくるし、夏休みはずっと一緒だし。絶望的な気持ちになる。希死念慮も出てくる。

それと同じ時期にカウンセラーの先生が産休に入る。カウンセリングがなくなり、主治医の先生に不安を吐露すると薬をひたすら増やされる。ラミクタールは150mgに増え、エビリファイ、ラツーダと増えるも状態が良くならず、薬の副作用もあるのか寝込むことが増える。あまりに鬱状態が続いて辛かったので、抗うつ剤も処方してもらうが効かず。更年期の疑いもあったので、漢方薬も飲むが改善はしなかった。
イライラして怒ることが増えたので、液状のエビリファイを頓服として出してもらう。

小学生

状態も悪く不安を抱えたまま、入学準備をなんとかこなす。子どもも私も新しい環境に馴染むのに時間がかかった。夏休みは学童保育に申し込むも、子どもも行くのを嫌がったので、ほとんど利用しないまま過ごす。

私の状態が不安定だったからか、子どもがおもらしするようになる。泌尿器科に行くも問題なく、精神的なものだろうと言われる。申し訳なく思い、私がいない方が子どもにとっていいのではないかと泣いて過ごす。今思えば、自分を責めるのではなく、子どもをフォローすべきだったのだと思う。当時はその余裕はまったくなかった。

コロナ(1、2年生)

小学校生活に慣れてきた頃、コロナで自宅待機になる。チャレンジタッチ、アマプラ、Switchを駆使してなんとか乗り切る。私は最低限の家事と3食作る以外は寝たきりで過ごす。

学校が再開して、カウンセラーの先生が復帰したので、カウンセリングに通うようになるも状態は良くならなかった。

転勤、引越し(3年生)

子どもが小3の秋、転勤が決まり引越すことになる。今思えば躁転し、新居探し、荷造り、各種手続きを1人でこなす。
引越し後、再び鬱になり、寝たきり状態になる。買い物に行っても何を買っていいのかわからず、献立も決められず、泣きながら料理を作ったりする。

紹介されたカウンセリングを併設している病院が遠かったので、自分で調べたカウンセリングのある精神科に通う。しかし、臨床心理士でも医療従事者でもないカウンセラーで、話もろくに聞いてもらえず、逆にしんどくなる。訪問看護をすすめられ、週一で看護師さんが家に来て話を聞いてくれるようになる。カウンセリングを受けるのはやめる。

新しい先生に鬱状態が辛いことを訴えると薬の副作用かもしれないと言われ、自己判断で薬を減薬する。そのことについて何も言われなかったので、短い期間でエビリファイ、ラツーダを減らす。そのおかげか、体が軽くなり少し動けるようになる。

4年生

子どもに手がかからなくなったこともあり、時々寝込むが日常生活をこなせるようになる。
同時に軽躁になり、ネットショッピングで散財する。ここから、軽躁、鬱を繰り返す。しかし、波は小さくなり、寝込むことがほぼなくなる。

子どものことも可愛いと思えるようになる。子どもの問題行動も少なくなる。余裕ができたので、子どものフォローができるようになったのだと思う。

年末年始の帰省の反動で、鬱状態、過食になり5kg太る。
もう年なので、体重は増えるだけで減らなくなる。

5年生

春休みに学童保育の求人を見つけ、条件が良かったので応募して採用される。週2、3日で、1日2〜3時間で無理なく働ける。今思えば、軽躁での所業だが、社会復帰のきっかけになって良かったと思う。

子どもと一緒にいろんなことを楽しめるようになる。幸せだなと思える日々が増える。

年末年始の帰省の反動で、また過食になり3kg太る。

6年生

春になり、また軽躁状態で、もっと働きたくなり、他の仕事を探すようになる。派遣保育士で週3日、1日5時間の仕事を見つけ、7月から働く。
しかし、人手不足で、採用された時と条件が違う仕事をさせられる。子どもが病気になっても休みが取れなかったので、契約期間の3ヶ月で辞める。正規職員も毎月辞めていく職場だったが、保育園の仕事が自分に合わないことが身に染みてわかる。
過度なストレスを受けつつも3ヶ月は続けられ、その後も鬱状態にならずにすんだことは、ある意味良かったと思う。

ただ、働いている時はイライラすることが多かったので、子どもにはもう働いてほしくないと言われる。そして、今に至る。

まとめ

今でも軽躁になり、その後鬱っぽくなりますが、寝込むことはなくなりました。
薬はラミクタール150mg、レキソタンと漢方薬(加味逍遙散)を飲んでます。あとは、訪問看護を週1、30分で利用してます。

ここ2年くらいは穏やかに過ごせています。
子どもも楽しそうに学校に行って、友達もたくさんいるみたいで、ありがたいなと思います。

ただ、小さな頃に寂しい思いも悲しい思いもしたと思うので、これからいろいろ問題が出てくるのかなとも思ってます。その時はできる限り、子どもが望むサポートができるといいなと思います。

長々と書いてしまいました。軽躁ですね。
でも、年内にここに書けて良かったです。

我ながら良くサバイブしてきたなと思います。
養老孟司先生が「不幸な時に死ぬと不幸なままなので、長生きしないと損をする」とおっしゃってたのですが、その通りだなと。
また、しんどくなる時が来ると思いますが、なんとか生きながらえようと思います。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました!



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