働くとは、伝えること、草鞋の話。
年が明けた。桜が散るころに私は「働き方」が変わる。
コミュニティというものが複数あるのは、個人的に居心地が良いものであった。
その二足の草鞋を履き続けることで、片方の鼻緒が外れかかったり、少しずつ地面にするようなイメージで、歩きはじめていたような気がした。
「まだいける」と思いながら働いていたら、体調が崩れた。
どれも診断名がつくような症状ではなかったが、1ヶ月頭痛が続き、突然結膜炎(暫く原因わからず)になり、なんだか喉元に閉塞感が残るようなすっきりしない日々が続いた。
同じ場所にもう1年いることはできたけども、「同じようなことはできないな。」ふと友人に会いに、滋賀に行ったときに妙に腑に落ちた、納得できた朝があり、帰りの新幹線で、仲のいい同僚に「辞めるわ」と宣言のメールをした。
すり減った片足をまた編み直して、自分にフィットする形に作り上げる作業が待っている。
完成してからが終わりじゃなく、そこからどう歩いていくかを、歩みを止めない限り考えていく。この繰り返しであると思う。
それがどんな形であれ、その過程で自分の得意と得意じゃないものや好きなものだったり、どうしても好きになれないものであったり。
チクチク刺さる繊維の様な者を歩きながら滑らかにして、自分なりの草鞋を整えていく作業が待っているのだと思う。
辞めるという決断をなかなか言葉にできなかったのは、ここに去ることで縁が切れてしまうのではという不安が大半だったように感じる。
大好きな職場を去ることはとても寂しく不安が募る。
だけど、履き慣れた少し不格好に綻びが見えてきたものを、愛おしく思いながらもリュックに括り付けて「思い出」として「経験」として残して、大切だと思う人には、また新しい草鞋で会いに行けばいいんだと思う。
そう思ったのは、今思えば、友人のいる滋賀に行った時に吹っ飛んだ。
自分が大切な人で、これからも繋がっていきたいと思うのなら、その想いを告げて、歩み出せば良いのだと。
新しい場所に踏み出すときにも、「言葉」が必要で、言葉の使い方で印象も変わっていくのだと思う。本を読む大切さも、「どう」伝えるかの選択肢を増やす大きな自分だけの辞書になるし、持っていて大して負担になることだってない。
丁寧に、藁と藁を合わせてすり合わせて編むように、言葉を紡いで。
コロナ禍になり、人との直接的な関わりが薄くなった代わりに、繋がりたい気持ちが増える様に、直接だと簡単に伝わることも、少しコツがいる様にも感じている。
今までと同じ様にとはいかず、離れていると、「言葉の距離」は離れてしまっている様な感覚を覚える。だから今以上に、「伝える」ということは大切になるし、「実質的な距離が離れるのなら、言葉の距離を近づけなければ」と思う様になった。
2020年は「自分がしたいこと」を何気なく話していると「こうしてみたら?」と手を差し伸べてくれる人に出会えた。
知らないうちに自分がしたいことをできる様な景色が見えてきている。これは、言葉として声に発して、誰かに伝えて。そこから何かが始まっていたのだと思う。
そして安定している居場所(会社)なんて見つけることが大変で、しがみついた先の、予測がつかないという不安やネガティブな気持ちを抑えながらも、居場所探しを続けていくのかと、引っかかる思いをしたのを覚えている。
同じ不安を持つのなら、不恰好でも自分のお城を作って、そこから道を整えて、大好きな人たちに会いに行けばいいのでは。その道の作り方や守り方を大切にしていくことがよっぽど、自分の性に合っているのかな。と思った。
大学生というこれから社会人として新たな道の進み方を選べる彼らを見つめる私は、「彼らが楽しく笑って次の道に進んでほしい」と願ってしまう。
こんなことは難しいことなのか。
「嫌だ嫌だ」と嘆きながら仕事をしたくはない。
だからどれだけその場を楽しめるか。些細な愚痴もいかに面白おかしく捉えるか。
そしてなぜそのことが起きたのだろうと、俯瞰的に見ること。
これで大抵の悩みは少しラクになるとは思う。
だけど朝早く起きて、電車に揺られながら会社の入り口で「いきたくない…」と思うのは、ちょっと私はもったいない様な気がする。
せっかく同じ時間を仕事として過ごすのなら、楽しく面白く。
綺麗事かもしれないけれど、綺麗事も言ってみるもんだなと。今になって思う。
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これを書いていたのは年明けの頃。
実は、この数ヶ月でもいや数週間、数日にも変化があり、働き方が予定と変わっていった。(個人事業主で業務委託でのジョインの予定が、正社員に。)
声をかけてもらったのを一度はお断り?していたのだが、今まで履き潰していた草鞋であるメインの仕事を退職する数日前に、もう一度正式に声をかけていただくことに。
迷いとか悩むとか考えるとかする前に「このタイミングの逃しちゃまずい何かがある気がする」と思い、「えいやっ」と飛び込んだ。(記憶がほぼない。時間にして2-3分だったかと思う。)
これから先、どうなるかわからないけと、少し前、マツコさんと源さんがテレビで「大事なタイミングで差し伸ばしてくれる手を逃しちゃいけない」というような話をしていたと聞き、私は、それを掴む人だと言ってくれた人がいる。
その人は、「ああ、私もこの人の手を握ったから、二足の草鞋を履き、この選択をしたんだろうな」と思うほど恩人のような方。
合わせてその人がくれた「(マツコさんと源さんが話していることって)なかなかできることじゃないから、それは忘れないで大切にした方がいいカンだよ。」というメッセージがその日から離れなくなった。(そしてすぐその放送を見た)
私の人生って、ノリと勢いに任せているような気がする。
そしてタイミングと縁で、多くの人に助けられている。
石橋叩くことも時には必要なタイミングはいつか来るのかもしれない。
きっとその時も何かの縁に救われるのだろうか。
これからの日々が、見えなすぎてとても楽しみだ。
どんな草鞋を私は履くのだろう。
この春することは、いきあたりばったりの草鞋探しの旅なのかもしれない。
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