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対話1.0 「自分の中でぐーるぐる」
対話とは
言葉{手話も点字も手紙もモールス信号もテレパシー
(文字に落とせるものに限る)も}によるコミュニケーションで、
自己と他者の、差異と共通点を意識しながら行うもの。
これは、2020年4月末時点での僕の中での”対話”の定義。
この後2週間ほどでアップデートされるので、ツッコミは少々お待ちください。
今日から始まる「対話シリーズ」は、わたくしようてんにとっての”対話”の定義を見つけていく過程を記したものになる予定です。
なんで”対話”?
前回の自己紹介的な投稿にも書いていたのですが。
(改めて読むと、全くもって自己紹介になっていなくてもはや詐欺。ごめんなさい。)
今一番話題なホットが、”対話”なんです。
なぜ”対話”か、と言いますと。
言いますね。
ぜひ、聞いてください。
面白い話ではないけども。
大学入ってから、人と話すのって楽しいんだなーと思いはじめまして。
人への興味が止まらず。
time flies、2020年3月。
大学卒業を機に大好きな沖縄を離れて知り合いのいる兵庫の地へ。
その前に、沖縄で会いたい人には会っておかねば、ということで、3月の後半は人に会いまくりました。
日々話しながら、お互いに新しい発見や気づきがあったり、深い共感があったり、自分の特異性に気付いたり。
(会ってくれた皆さん、ありがとう。会えなかった皆さん、また今度。)
2020/04/01@よへさん宅 in なは
前回も載せちゃったけど、これほんと楽しかった(他の人との写真がないというのもある)。
”対話”してたなー、って感じ。
そんなこんなで、改めて人と話すことの楽しさを噛み締めた数週間だったんです。
それを思い返すと、”対話”的だったなーと。
あぁ、自分は本当に対話が好きなんだな、と。
そう思える背景には、ファシリテーションを学んできたこと、「きく」ことを学んできたこと、そして自分自身のコミュニケーション能力の向上も大きく影響しているなーと思います。
そんな、人生最濃の”対話”期間を経て兵庫。
知り合いが借りている物件でバーを開くことになりました。
ただ、元々飲食をやりたかったわけでもないので、そこで勝負するにしても熱量が・・・。
ってことで出てきたのが”対話”。
僕が好きなのが”対話”だから、”対話”を大切にしたバー、Dialogue Bar "Logue House"を始めることになりました。
(とは言ったものの、さすがにこの時期いつ始められるかわからず。そもそも始められるかもわからず。ということで、この話は一旦終了)
じゃあ、そんなバーを開くにあたって、僕が大事にしたい”対話”って、なんのことを言ってるのか。
僕の中での”対話”の定義はなんなのか。
それを考えはじめたら、とまらねーぜちきしょうって感じになってしまい。
驚異的に読み応えのない文章を書いてますね。
自覚してます。
でもこの後テンションあげていきますよ٩( 'ω' )و
ここらで写真を。
2019年10月26日23:18に撮った。
初、えびちり。
あ、えびちりって、作れるんだ。
って思いました。
おいしかったです。
えびちりの定義ってなんだと思います?
”対話”とは
気を取り直します。
バーを始めるにあたって、僕にとっての”対話”の言語化が必要だなー、ということで、思考スタート。
冒頭にも書きましたが、考える中で最初に出てきた”対話”の定義(対話1.0)がこちら。
言葉(文字化できるもの)によるコミュニケーションで、
自己と他者の、差異と共通点を意識しながら行うもの。
これ、割としっくりきてました。
というのも、その時、僕はひたすら自己探求のおもしろさを噛み締めていたから。
「対話1.0」が生まれた過程
元々人と話す時に、楽しいなー。と感じていたのは、
お、なるほど、そんな捉え方あるのね!
とか
あー、そこは自分の考えと違うわ。
とかが自分の中で見えてきた時。
これは、割とちょっと興奮状態。
逆に、
いやいやいやいや。それはちょっと。
とか
初めてそんな考え方聞いたわ。
とか言われると、内心「っしゃ٩( 'ω' )و」ってなってるし、「あ、これって自分ならではなんだ」とかがわかる。(あくまで比較対象はその目の前の人だけど)
結局、他者とのコミュニケーションを通じて自己理解が進むことへの、もはや快感を享受してるんだなー、と。
「なんでそう思うの?」
「なんでその言葉を使ったの?」
「〇〇って、あなたにとってどういう意味?」
「それは、・・・とは違うの?」
「僕はこう思ってるんだけど・・・」
これらをぶつけながら、その人との共通点と差異を確認しながら自己理解を深めることが、何よりの幸せ。
そうしていつしか、僕は
「自己理解につながるものこそが”対話”だ!」
と思うようになっていました。
ただ、「”対話”=自己理解」とすると、それはそれで謎なので、「自己理解」は、あくまで対話の結果、成果、(僕の)目的。
ということは、”対話”はその前段階、つまり、「自己と他者のすり合わせ」のことを指すのではないか。
すり合わせってなんだ。
「共通点と差異の確認」だ。
なるほど。
すると、
”対話”とは、①「自己と他者の共通点と差異の確認」である。
んー。
これだと、ちょっと分野というか、ジャンルというか、場面が広すぎる。
ここでのポイントは、僕の中で”対話”はあくまでコミュニケーション、ということ。
僕は、コミュニケーションの重要な要素は双方向性だと思っています。
そして、①の定義だと「確認すること」が「目的」的になる。
これまたちょっと違う。
そもそも、対話には終わりはないと思っており。
ある意味、無目的性も”対話”の大きな要素だと。
すると、行為そのものにフォーカスを当てた表現の方がしっくりくるのでは。
ということで、
”対話”とは、②自己と他者の共通点と差異を「意識しながら行うコミュニケーション」
さぁ、どうでしょう。
すると、出てくるのは、「コミュニケーションとは」という定義。
けど、さすがにちょっと、お手上げ🙌
何かを考える時には、範囲を決めることが大切ですよね٩( ᐛ )و
ということで、今回”コミュニケーション”とは「双方向のやりとり」とおきます。
おきます。
おくんです。
そこで。
”コミュニケーション”を「双方向のやりとり」とおくと、②の定義では僕的に問題が出てくるわけです。
その代表例は、「ノンバーバル(非言語)コミュニケーション」。
(ここでは、「言語以外のコミュニケーション」としますか。顔の表情やジェスチャー、声のトーンなど、「言語以外のコミュニケーションの要素」として捉えるとちょっと話通じなくなっちゃうので。)
これでは、”対話”はできない。
というか、”これだけ”では。
できない、と思ってるんですね。
なぜなら、共有、意思疎通、交換できるものが圧倒的に少なすぎる。
ミスコミュニケーションの要素が多すぎる、から。
当然、グラデーションはあると思います。
今の僕の英語力で英語を母語とする人と”対話”を行うとすると、精度はかなり低いものになるでしょう。ただ、それは僕の能力に依存していると思うので、一旦置いておく。
そうしたときにノンバーバルコミュニケーションは、それそのものの特徴として、非常に”交換”できるものが少ない、というものがあります。
といことで、「ノンバーバルコミュニケーションでは”対話”はできない」という結論に。
すると、”対話”の本質は「ノンバーバルでないこと」というよりも「バーバルであること」になる。少なくとも、一方が発信した情報量の多くの部分(8,90%とか?逆に100%はないと思うけど)は受け手に共有される必要がありそう。
ということは、行為者間でいわゆる”共通言語”のやりとりが行われる必要がある、と。
先ほどの、母語が違う場合ではコミュニケーションの精度が下がる、という話でいうと、その言葉通り”共通言語”が減ってしまうことによる、”対話”の質・精度の低下は避けられない、ということになります。
ではでは、さまざまな”共通言語”の特徴とはなんでしょう。
それを考えていった結果、「文字化できること」が要素なんじゃないか!!
と思いまして。
(文字と言語の関係とか歴史とかそのあたりはよくわからないので、置いておきます。)
・口👄と耳👂を使って、”波”🌊をやり取りするもの(声、というやつ)
・手✌️と目👀を使って、やり取りするもの(いわゆる手話)
・目👀を使って、文字✉️をやり取りするもの(手紙やSNS)
・指の腹🤘を使ってやり取りするもの(点字?)
・目👀や耳👂、肌💪を使って”波”🌊をやり取りするもの(モールス信号?)
とりあえず今思いつく”共通言語”たち。
これらは、全て「文字化」が可能。
テレパシーは。
うん。
文字化できる場合のみ入れることにしましょう。
ちなみに上記以外の意思疎通方法ってあるんでしょうか。
何か見落としている?
もしくは、まだ僕が知らない世界がある?
知ってたらぜひ教えてくださいませ。
テレパシーで思い出したけど、僕はあいみょんが好きです。
本気です。
正直いうと、ごくまれに「みょんみょん」と呼んでしまう時があります。
それくらい好きです。照
ということで。
ここまでの過程を経て、ようやく冒頭に記した定義。
”対話”とは
「言葉(文字化できるもの)によるコミュニケーションで」、
自己と他者の、差異と共通点を意識しながら行うもの
というところに落ち着きます。
これが、私の中での「対話1.0」。
ここからどう次に進むかというと。
ネットで「対話」についてひたすら調べます。
また、本を呼んだり。
比較の段階ですね。
ここで、一度反省することになります。
「なんとまぁ独りよがりな思考回路なんでしょう」
と。
まったく。
独りよがりはいかんですな。
ぎゅーっとなると、ぎゅーってなっちゃうから、ぱーっとならないとですね。
高校にあった自販機。
いつも買ってた「らくのうコーヒー」。
僕が買ったら全部「売切」になりました。
なんでしょう、この、罪悪感を大きく超える「優越感」。
嗚呼、人はなんと罪深い。
独りよがりはよくないですね。
えびちりが関係なさすぎたから、なんとか本文に寄せようとしたけど、うまくいかない。
独りよがりを表す写真、募集中。
”社会化”する言葉
さてさて。
前述した「独りよがりな思考回路」。
なぜそれについて反省したのか。
なぜ反省すべきと思ったのか。
これはあんまりじっくりは考えられてないんですけど。
”社会化”する言葉
と
”社会化”しない言葉
があると思っていて。
(現時点でしっくりきている言語化。そもそも、”言葉”自体が社会があったからこそ生まれたものだと考えたら、”社会化”しない言葉なんてないよなーとは思うんですけどね。)
ちょっと長い。
続きは次に書かせてくださいm(_ _)m
乞うご期待。
P.S.このNOTEは、自分の思考の整理の過程を書き残すためのものです。いうならば、記録です。
その他。
今書きたいことを短く書く!のコーナー。8888888
名付けます。
I(いま)K(書きたいことを)M(短く)K(書く)!のコーナー。
IKMK!。
「自分の記録のためのブログ(NOTE含む)です」と書くのって、ずるいと思いませんか?
なんか、書いていることに対して何か言われたときに「いや、これは別に自分のためなので」って言って逃げるための保険みたいな気がしていて。
僕は、「ずるいかなー。ずるいよなー。でも、書くことについての責任そんなに取りたくないんだよなー。そもそも本当に記録のために書いてるし。」と思いながら書いてます。
でも、「だったら公開しない自分用のメモでいいじゃん」となる。
んー、ずるいですかね。
それをやめる気は、今のところないんですけどねー。
でもやっぱり、ずるい気はします。
その辺って、いかがですか?
なんてこと書いてたら、それに関してまた書きたいことでてきたので、次書きますね。
楽しみですか?
楽しみでしょう。
楽しみですね。
なんか、お決まりの締め台詞つくりたい。
あと、本当にもうスーパーどうでもいいんですけど。
僕冒頭で「一番話題なホットが、”対話”なんです」って書いたんですけど、気付きました?
いや、もう、ほんとにどうでもいいんですけど。
一回書き間違えたときに直そうとしたんですけど、読み返したときに、これ無意識に「一番ホットな話題」に脳内変換されるなーと思って、ほっといたんです。
ほんと、すみません。
お付き合いいただいて。
ありがとうございます。
愛を込めて。