【楽曲紹介】刹那はヴァギナ、それってもはや神話の域じゃないか!【佐野元春】
前回、3月13日は佐野元春の誕生日だったという話をしたが、調べてみたら、アルバム『ZOOEY』(2013年)がリリースされたのも3月13日だったそうだ。しかも今年で10周年である。
というわけで『ZOOEY』の中でも特に好きな楽曲について書いてみようと思う。
『スーパー・ナチュラル・ウーマン』だ。
この曲を聞いた誰もが一度は「ん?」と耳を傾けるポイントがある。それは「刹那」を明らかに「ヴァギナ」と発声している点だ。つまり「そうさその柔らかなヴァギナで世界を抱きしめてる」と歌っているのだ。
……こうとだけ書けば、ただ下ネタっぽい部分にキャッキャとはしゃいでいる中学生にしか見えないかもしれないが、そうではない。「刹那」を「ヴァギナ」と読ませる斬新さもさることながら、その「刹那(ヴァギナ)」が世界を抱きしめてしまうという、ギリシア神話の女神ガイアもびっくりのダイナミックな女性賛美と神話性に着目してほしいのだ。
「スーパー・ナチュラル・ウーマン」である「彼女」の神話性は、「モラルのハンマーでさえ/君を打ち砕けない」を含め、とにかく無敵と呼べるほど開放的かつアンコントロールな生命力として語られる。
無敵と呼べるほど開放的かつアンコントロールな生命力、それはつまり“自由”である。「縦横無尽/野原を駆ける馬のよう」に、捕まえて腕の中に留めておこうとしてもすぐに振り払われてしまう。しかし、馬は厩で拘束されているよりも、大地を蹴り、風を切り、ここではないどこかへ向かって疾走してゆく姿のほうが美しくて尊い。そのような在り方こそが、この曲の中で語られる、崇拝とも呼べる賛美の対象になっているといえるだろう。
その称揚ぶりに対して、単に若い女性が好きでたまらないオジサンと同じじゃないかと感じる人がいるかもしれない。しかしおれは、佐野の視点と姿勢は、そのようなオジサンとは本質において大きく異なると考えている。
若い女性(という属性)が好きでたまらないオジサンが若い女性に向ける感情は、 大抵において“性欲とコントロール欲求が混然一体となったグロテスクな情動”である。大抵というか、すべてかもしれない。表面だけを掬い取れば称揚に見えるだろうが、皮一枚剥がせば女性蔑視がすぐに露わになる。
しかし佐野の語り口は違う。なぜなら、この歌詞の中には“可愛さ”や“弱さ”や“未完成さ”、あるいはそれに類する形容表現は見当たらず、「彼女」を庇護したり懐柔したりする対象として描いていないからだ。
それどころか、先ほどから繰り返し述べているように、庇護や懐柔とは対極的な自由で完成された存在、神話的な存在として「彼女」を見上げている。「命を生んで/その命をまたつないでゆく」は、ただ子を産んで母になることだけを意味しない。「彼女」の生命力は「彼女」の肉体だけに完結せず “生をつなげる”というかたちで永続性へと昇華されることを示唆する。
おれがコヨーテバンドの佐野元春の作詞傾向において最も好きだと感じる部分は、円熟味と若さを心地よいバランスで兼ね備えているところだ。未熟さを経たうえでの信仰を垣間見せる一方で、個人として感じる恋の甘さ(歓びとしての敗北感)も、この域に達してもなお忘れていない。ただ老成しただけの人間には「くちづけは永遠」「君に負けてしまう」なんで逆に言えない。逆に。
円熟味と若さの止揚、それが、刹那(ヴァギナ)が世界を包むという神話を生んだのかもしれない。
そんな佐野元春に、はっきり言っておれはあこがれているぞ!
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