親を見送るということ- 父、帰る編 -
9月半ば父は退院の日を迎えた。
人生初の入院から解放された喜びもあってか、いつにも増して元気だった。
荷物も自分で持つと言い、まるで病が完治して退院する人のようだった。
こんなに元気なのに、本当に年単位で生きられないのだろうか?
しかし退院できる喜びで張り切っている父を見る担当医の目は悲しそうだった。
この病気は可哀想なんですよ。
食べることも出来ない、リンパにも転移しているから頭が圧迫されたり、
出血したら呼吸が出来なくなり窒息します。
と言われたことを思い出した。
でもその時の私にはどうしても想像出来なかった。
あまりにも父は元気だったのだ。
大学病院を退院して、その足でこれからお世話になる自宅近くの病院へ向かった。
そして院長から今後の説明をされた。
「これからはね、栄養は直接胃から摂るわけですが たまにはお楽しみで柔らかい物なら少しは食べられます。何か食べたいものはありますか?」
と聞かれると、
即座に「うどん!」と父は答えた。
医師は苦笑いしながら、
「うどんか〜、うどんはどうかな?豆腐とかプリンだったらね...」
と言った。
私も父も母が作る手打ちうどんが大好きだ。
食べさせてはあげたいが、それが命取りになるかもしれない。
幸い父の頭はしっかりしている。
自分で何なら食べられそうか考えることは、今のところ出来そうだ。
これからは月に1度院長が自宅に来て診察を行い、ヘルパーさんが週に3回か4回様子を見ながら入浴介助などをしてくれるらしい。
父の要介護度は5だったが、ヘルパーさんには
「何でも自分で出来るからそんなに来なくてもいい」
と言っていた。
しかしながら母には何かと指示を出していた。
昔の人間だからか、「妻は自分の所有物」という考え方の人間だ。
だから母は父に家に帰ってきてほしくなかったのだ。
ヘルパーさんから
「お父さん、あんまりお母さんに負担かけないでね。何かあったらすぐに私達を呼んでね。」
と言われ、私も
「お父さん!お母さんがもう無理だって言ったら、すぐに入院なんだからね。」
と釘を刺した。
食事の為の器具の消毒を徹底しなければと思っていたようだが、ヘルパーさんから
「病院のように徹底的に消毒するのは難しいの、でもね食器と同じ感覚で大丈夫だから。」
そう言われて父は安心したようだった。
母は父が帰ってきて早々あれやこれやと指示をされても、それが頭に入っていかないようだった。
このまま母がボケてしまうのではないか、と私は不安に駆られた。
父も母の様子を見てあてにはならないと悟ったのだろう、出来る限りのことは自分でやるようになった。
父が戻ったことを聞きつけた近所の人達やかつての同僚達が入れ替わりにやってきて、父のあまりの元気さに皆驚いていた。
時には畑で耕耘機をかけたり、草切り機をかけたりして本当に元気に動いていた。
たまにはお楽しみで、豆腐やプリン、生クリームを気をつけながら少しずつ口にした。
入浴も介助を受けることなく、一人で入っていた。
父は母に何か指図することはあっても、私に何かしてほしいと言ったことは無かった。
今だに父にとって私は子供なのだろう、弱いところも見せなかった。
あの頃の父は無理して元気アピールをしていたのだろうか?
それは今でもわからない。
私が時々「体調はどう?」と聞くと、父は決まって「絶好調!」と答えた。
家に戻って2ヶ月余り、父は健やかにのびのびと過ごしていたように見えた。
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